文章がまとまらないのは、考えがまとまっていないからであって、そもそもそんな文章をたとえブログであっても公にするというのは考えものですが、まあ民主主義なんて言うものは選挙の時しか考えないというのは他ならぬ自分であっても同様ですから、まあいいでしょう。
というわけで、まとまらない文章を書き殴ります。
古代ギリシャ・ローマにおいては「市民として政治に参加しないものは、たとえ知識や財力があっても奴隷である」と考えられていたということは紹介しました。
その全時代においてそうであったとは言えないでしょうが、その言い方が成立していた時もあったことでしょう。
これを現代日本に当てはめるとどうなるか。
ほとんどの人間が奴隷であるということです。
いかに知識を豊富に持ち、また多額の収入を得ていても、政治を考え自らの所属する社会について考えることがほとんど無ければ、市民としての責任は果たしていません。
ごくごく一部の政治家と言われる人々のみが政治を考えているということなのでしょうが、どうも日本の政治家のほとんどは「社会を真剣に考えている」とは言えないようです。
つまり、日本には民主制などと言うものはないということでしょう。
つい先日、敗戦後に選挙制度が大きく変わったころのニュース映像というものが放映されていました。
初めて参政権を得た女性たちが選挙を行うというところの映像でした。
しかし、そのバックに流れていたナレーションが「GHQによってもたらされた参政権を無駄にしてはいけません」などと言うものでした。
結局は、日本の民主制というものは他所の権力者により与えられたものでしかなかったのでしょう。
政治を考えるのが市民の勤めどころか、日本では政治に携わるのはあたかも賤業のようにもとらえられます。
社会のグレーゾーンを取り仕切ることも必要であり、それを上手く執り行うのはそちらに顔が効かなければできないかのようです。
今思えば我ながらお恥ずかしい話ですが、もうかなり以前に、かつての小中学校の同窓生が市議会議員に出るということになり、思わず「あいつも政治家になるところまで堕ちたか」と考えてしまいました。
考えただけではなく、他の友人にもそう話したような気もしますが、別に反論もされなかったようです。
まあ、議員志望の彼氏もそれほど崇高な理想を掲げていたようではなかったのですが。
しかしこのような風潮も、政治家というもの、議員や自治体長といった選挙で選ばれる人々が何をやろうとしているかによっても左右されるでしょう。
国の形を決め、諸外国との関係を差配し、国の将来像を設定してそれに向かって様々な施策を行っていく、そういった職務に邁進するのが政治家であるなら、そのような蔑視のような扱いを受けるはずもありません。
ところが、日本の多くの政治家は単に国の施策として行われる事業を割り振るだけ(そしてそこには利権が付きまとう)、利権あさりとでも言えるようなことだけが仕事であれば、とても尊敬はできないでしょう。
ただし、「国の形を決め」から始まる文章のような職務が、日本の政治家には行うことができなければ、利権あさりのみが仕事のようになっていても仕方ありません。
日本ではそのような崇高な職務はアメリカの顔色をうかがわなければできないのが現状であるなら、政治家の職務が制限されるのも当然のことです。
やれやれ、ようやく日本の民主主義の現状が見えてきました。
結局は国の未来を決められる権限が日本の政治家に許されていないのなら、本当の民主制もあり得ないということなのでしょう。