太平洋戦争の時には親が空襲などで死亡し、残されてしまった戦争孤児と呼ばれた人々がいたということは何となく聞いてはいました。
浮浪児などという言葉もあり、上野の地下道という場所も連想されましたが、その実態もよくはわかりませんでした。
本書著者の金田さんはご自身も親や兄弟が東京空襲で亡くなり、一人だけ残されてしまったというご経験を持たれています。
金田さんもずっと孤児としての経験を誰にも語ることもできなかったのですが、50歳頃に大病を患いこのまま死んでしまえば誰にも戦争孤児という人々がいたことすら分からなくなってしまうと思い、自分の経験を本にし、さらに孤児だった人々を訪ねて話を聞くという活動を始めたそうです。
この本はそういった孤児たちから聞いた経験談、金田さんが調べて分かった範囲での戦争孤児たちの状況などをまとめたものです。
まずは最初の金田さん本人の経験から書かれています。
お父上は浅草で商店を営んでいたのですが、戦争前に病死、しかし母上がそのまま商売を続けたので生活にはゆとりがあったそうです。
しかし戦況が悪化したため、1944年8月に小学3年から6年の子どもたちは集団疎開をすることとなりました。
宮城県に疎開をしたのですが、苦しい生活で母親に頼み家族での疎開に変更してもらうこととなりました。
しかし、翌年3月9日に卒業のために東京に戻る6年生とともに列車に乗り、着いた時には東京は10日未明の大空襲で無残なありさまとなっていました。
母や兄弟も行方知らず(その後ご遺体は発見されました)家族を失い親戚に引き取られました。
親戚宅では朝から晩までこき使われましたが、一応高校までは通うことができました。(これは他の方々とくらべればかなり恵まれたことだったのかもしれません)
高校卒業後は一人で上京し、いろいろな仕事を転々としますが、その後結婚し子供もできます。
しかし孤児であったことは誰にも言えなかったものの、大病したことで意識が変わったということは最初に書いた通りです。
戦争孤児、そして集団疎開についていろいろと調べだして驚いたのが、きちんとした調査資料が全くないということです。
戦争中はあったはずの、疎開した生徒たちの資料や、その後家族が死亡したために孤児となった人たちの数すら、どこにも残っていません。
まるで、意図的に廃棄したかのようです。
1947年に厚生省はアメリカ軍からの命令もあって孤児の調査をしました。
その時に上がった数が12万人以上であったそうです。
これでも多くの漏れがあり実際は20万人以上ということです。
しかしこの調査結果はその時には公表されず、それから50年以上もたってようやく表に出たのでした。
1946年に国会で質疑があった際には、3000名という数字が出されています。
どこからどう計算したかもわからない数字ですが、まったく事実とは異なるものでした。
軍人や軍人遺族には巨額の恩給を払いながら、戦争孤児にはまったく金を出そうとしなかった戦後政府の姿勢がここにも表れています。
著者が戦争孤児について調べるようになり、アンケート調査を実施しましたが、その体験の厳しさは著者自身のものをはるかに越えるようなものが多かったようです。
親戚に引き取られた例が多かったのですが、厄介者扱い程度であれば良い方で、学校にも行かせてもらえずに奴隷のように働かされたということが見られます。
また、親戚すら分からなかった子供を養子と称して引き取ることもあったのですが、これもその後人買いに転売といった事例もあり、男子は頑丈そうな子から、女子はかわいい子から引き取られるというのが、その後の運命を暗示するようなものでした。
また東京都心部で商売などをやっていた家庭では相当な財産があるところもあったのですが、その財産を親戚が横領したという事例も頻発しています。
これは金田さんの場合もあったことで、母上が肌身離さず持っていた多額の貯金通帳はそのまま金田さんを引き取った親戚が我が物とし、それでも扱いは下働きのままということがありました。
東京や空襲を受けた都会の事例では、戦争孤児となった人たちと集団疎開というものが非常に関係深いものでした。
東京に残っていれば空襲時に家族と共に死亡した可能性が強いのですが、それでも一緒に死んだほうがマシだったと言う孤児も多数いました。
戦争中はまだ国策としての集団疎開だったので費用も出ていたのですが、敗戦と同時に疎開者への支援も絶たれます。
子どもたちの引き取り先が無いと困るということで、親戚を探し出しての引き取りの強制ということも行われました。
それが、その後の子どもへの辛い待遇ということにもつながりました。
親戚すらない子どもたちは、上記のような胡散臭い連中への養子縁組という、事実上の人身売買すら行われました。
冷たい親戚や、奴隷のように働かせる養親から逃げ出した子供たちは「浮浪児」としてさまようことになりました。
「上野の地下」というイメージが強かったのは、東北地方から送り返された疎開児童の中で行先のない子供がそのまま上野周辺に居ついたということがあったからです。
彼らはほとんど食べるものもなく、次々と亡くなっていきました。
孤児たちの多くがその後も恨みに思っているのが、国からは何一つ支援が無かったということです。
そして、都市の空襲での犠牲者も名簿どころか人数すらもはっきりせず、東京には慰霊碑の一つもありません。
意図的に隠されてきたかのような、空襲犠牲者、そして親を失った戦災孤児、孤児たちの多くが老齢となり亡くなってしまったらこの事実も消えてしまうのでしょうか。
金田さんは国が孤児に対してあまりにも冷たい仕打ちをしたことに憤り、軍人などへの恩給が高額なことと比べて嘆いています。
しかし、敗戦時のどさくさ紛れのひどい所業と言う点では、この前読んだジョン・ダワーさんの「敗北を抱きしめて」という本に紹介されていた、敗戦後数日でほとんどの軍や政府の財産を強奪した高級軍人、官僚、政商たちのことが想起されます。
金田さんがこのような事実を知ったらどう思われるでしょうか。
「敗北を抱きしめて 上」ジョン・ダワー著 - 爽風上々のブログ