日本のアニメと言えば今では世界中に知られるようになっていますが、その最初の頃に関わってきたのが著者の豊田有恒さんです。
SF作家としても知られていますが、日本アニメ創成期のエイトマンやスーパージェッターというアニメの制作に関わってきました。
さらに宇宙戦艦ヤマトにも深く関係してきました。
そのような時代の話を、関係者の多くが亡くなってしまった今、書き残しておこうという本です。
1961年に第1回の日本SFコンテストに入賞した豊田さんは、かと言ってそれで食べていくことなど全く不可能な情勢でしたが、手塚治虫と知り合いとなりその方向に進むことになりました。
同じころSFコンテストに入賞した平井和正と親交を結び、平井が少年マガジンでエイトマンを発表し好評となった後、TBSでテレビ化をする話が決まりました。
その際にシナリオ作成を共に行ったのがアニメ制作に関わる契機となりました。
まだアニメなどと言う言葉も無く、どうやって作っていくのかも分かっていない中で何とか作り上げていったそうです。
その時はまだ学生だったのですが、何か身の振り方を考えなければならなくなった時に手塚から連絡があり、虫プロで鉄腕アトムのシナリオを書くことになりました。
鉄腕アトムのテレビ放映の最初の頃はそれまでマンガとして発表していた分をどんどんと消費していったのですが、すぐにオリジナルの話は底をついてしまい、新たなシナリオが必要となったのでした。
「ラフレシアの巻」や「イルカ文明の巻」が豊田さんが書いたものですが、イルカ文明の方は40%以上という空前の視聴率を上げました。
手塚は大いに褒めてくれたのですが、側近には手塚原作より評判が良かったことをぼやいていたそうです。
手塚はアニメのアイデアはすごい人だったのですが、経営も人心掌握も得意な方ではなかったようです。
虫プロがその後経営破たんをしたのは有名な話ですが、部下との衝突も繰り返され、豊田さんとも手塚の誤解からのようですがケンカをしてそのまま豊田さんは虫プロを飛び出すということになりました。
その後は再びTBSに戻り、「スーパージェッター」や「宇宙少年ソラン」といったアニメ制作に加わりました。
そして徐々にSF小説の仕事の方に重心が移って行ったのですが、宇宙戦艦ヤマトの仕事を手伝うことになります。
山本暎一という、虫プロ時代からの知り合いからの紹介で、SFアニメをやりたいというプロデューサーの西崎義展と引き合わされます。
この宇宙戦艦ヤマトの権利をめぐっては、その後西崎と松本零士との間で裁判沙汰にもなるという泥仕合になります。
豊田さんの言い分によれば、SF的な原案を作ったのが豊田、キャラクターに関してはほとんど松本、他に多くのスタッフがそれぞれ得意の分野のアイディアを出し合いできたもので、西崎はその総合的な運営をしたということです。
西崎がその後原作権を主張することとなり、裁判で争うのですが、結局西崎が勝訴しました。
現在の日本アニメの隆盛というものは、こういった先人たちの苦闘があってこその物なのでしょう。