SF、かつての空想科学小説という分野は、戦前からもいくつかその傾向のある作品は発表されていたものの、本格的に出版がされるようになったのは1960年代からでした。
その時代から活躍し多くの仲間と共にこの日本SFというものを作り上げてきたのが、本書著者の豊田有恒さんで、他にもこういった本を数冊出版しています。
もはや初期のSF界を知る人も多くが物故してしまい、生き残ったものの特権で何でも言える?
いやいやそういった意図はなく、あくまでも命のあるうちにその時代の出来事を書き残しておきたいということでしょう。(たぶん)
前史という話から始まりますが、やはり本格的に始動したのは1959年のSFマガジン誌の創刊からでした。
豊田さんもその直後、第1回空想科学小説コンテストという企画に参加するところから関わり始めます。
豊田さんは「時間砲」という作品で佳作第3席となりました。
しかしその評価はアイデアは良いが文章はまるでだめというもので、その後も苦労することになります。
初期の頃にはその後は大作家となる星新一、筒井康隆、小松左京といった面々もまだそれほど売れない頃で、経済的には厳しいものでしたが、だからこそ皆が仲良しで付き合いも深かったようです。
そんな中、「日本SF作家クラブ」という団体を作ったのは良いのですが、あまり仕事もなく、皆で遊びまわっていたのが実情でした。
あちこちに視察と称して観光旅行をしているのですが、当時始まったばかりの原子力研究所にも見学に出かけ、予約が守衛に伝わっておらず長く門外で待たされたということもあったそうです。
まだ商業原子炉も一基も建設されていない当時ですが、知識だけは豊富な面々が研究員の説明もまともに聞かず、「たかが原爆の一つも作れねえのか」と光瀬龍が口走ったのを聞きつけた研究員が色を変え、「そんなものは作る気になれば明日にでも作って見せます」と怒り出したそうです。
原子力の平和利用という問題も始まったばかりですが、すでに「作らず・持たず・持ち込ませず」の非核三原則を政府は打ち出していました。
しかし、小松左京はその当時から「持ち込ませず」なんて言っても全く無理だろうと看破していたそうで、相当な先見性があったようです。
大阪万博の時にはそれに合わせて「国際SFシンポジウム」なるものを企画し、開いてしまいました。
できるだけ有名な作家を招いてと考えたのですが、さすがに大作家には来てもらえず、それでもアーサー・C・クラークやブライアン・オルディス、フレデリック・ポールといった面々には出席してもらえたそうです。
しかし応対メンバーは自前で通訳も無く、SF作家の面々が出て片言で接待し、豊田さんも羽田までの迎えにも出かけたそうです。
1970年代に入り、若い作家も続々とデビューするようになりましたが、広瀬正、大伴昌司の二人が早世してしまいます。
この本もそこで終わります。