著者は1932年生まれの中世日本史を専門とする歴史家です。
自然災害などの影響を重く見る史観で歴史を研究してきましたが、かつての日本の歴史学界ではそのような史観は「自然決定論」と決めつけられ、一段低いものかのように言われてきたそうです。
しかし、最近の現代社会で極めて大きい自然災害に見舞われるようになり、当然かつての社会ではその影響はもっと強かったであろうことは簡単に推測できるためか、このような見方も重要視されるようになったようです。
峰岸さんのかつての著作の中から、こういったテーマに沿ったものを選びなおして一冊の本とされました。
上州、今の群馬県ではうどんなど小麦を食べる機会がかなり多いのですが、そこにはかつて浅間火山の爆発で一帯の水田が全滅したという事件がありました。
浅間山もなんども爆発しているのですが、特に影響の大きかったのが天仁元年(1108年)のものでした。
浅間Bテフラと呼ばれるこの火山灰で埋没した水田が群馬県などの広い範囲で見られます。
現在でもその厚みは20cmに達するもので、噴火直後にはその3倍以上の火山灰堆積が、群馬県中央部に広く見られました。
今日でも山林や畑となっている場所の地下から水田の跡地が発掘されることがあります。
多くの水田が復旧されることなく放棄されたことが分かります。
実は、その火山噴火の前から東国はすでに疲弊した状況でした。
税を徴収することを免除するという政令が何度も発せられるほどでした。
それにさらにのしかかったのが噴火による火山灰堆積でした。
それで農産物の収穫はほとんどなくなり、在地の武士たちが略奪や国衙襲撃などの行為を繰り返すようになりました。
また国衙領の土地をせめて有力者に荘園として寄進し保護を求める動きが急速となります。
これをめぐり、中央政界にも波紋が広がり、政争に発展することにもなりました。
これが、古代から中世への転換をうながしたのかもしれません。
制札というものがありました。
高札とも呼ばれますが、歴史ドラマなどで木の板に書かれたものが町の辻に立てられるというイメージがあるかもしれません。
これは上意下達の形そのもので、為政者が民にお触れを出すというものでしょうか。
しかし、他にもそれに頼っていた民衆が居ました。
戦国時代には、敵味方の軍勢が入り乱れ、そのどちらもが戦地近くの民衆に乱暴狼藉を働いたり略奪をしたりといったことが頻発します。
民衆側もそれに対するために有力な方の軍勢の指揮者に頼み込んで乱暴を禁ずる一筆を貰おうとしました。
これを制札と呼びます。
これは、木の立札ではなく、例えば軍勢の指揮者の殿様に書いて貰う文書でした。
そして、軍勢が自分のところに近づけば、この制札を示して引き取らせるというものでした。
その実例として、現在の群馬県榛名町下室田にある長年寺という曹洞宗の寺に残る制札にまつわる歴史が紹介されています。
永禄4年(1561年)に武田信玄は上野国の国峰城にこもる長野氏を攻めるために上野に入ります。
その動きを察した長年寺住職の受連は急遽信玄の本陣を訪ね、兵の狼藉を防ぐための制札を求めます。
当然ながら何らかの献上品をたずさえてのことだったのでしょうが、首尾よく制札を手に入れた受連はそれを示しながら兵たちの狼藉から寺を守りました。
そのため、一通目の制札はボロボロになってしまったのか、また代わりの制札を願い出て与えられたそうです。
ここに見られるように、制札は別に上意下達の印としてあるものではなく、下の民衆が上に働きかけて(何らかの献上をして)手に入れるものでした。
このような制札の例は今でも多くの寺社などに残っています。
その他の町や村でも手に入れた可能性が強いのですが、そういったところではほとんど後まで残ることは無く、寺社で保存されたものは今まで残っているということのようです。
実は、軍勢を動かす側にとってもこういった制札は重要なものでした。
秀吉が部下の武将にこういった制札発行の基準などを示した文書が残っています。
相手によって制札発行のための上納金の額を設定するなど、これが戦の軍資金の一部として考えられていたことが分かります。
「永楽銭か金貨で納入させること」とか、「取次銭(中間搾取)は禁じる」など、かなり細かいところまで部下に徹底していました。
なお、これは最終的には戦が終わった時に「所領安堵」として文書を与えそれに対して上納金を収めるまで続いていました。
この制札のことを当時は「加敗」「加媒」「嘉倍」などと書いていました。
読み方はどれも「かばい」です。
これはどうやら「庇う」(かばう)というところから来た言葉のようで、この制札で軍勢から「かばう」という意味だったようです。
戦乱の世の中、民衆がどうやって生き延びていったのか、面白い史料でした。