東京や大阪の「電鉄」、阪急や阪神、東急、西武といった鉄道会社は、いわゆる「田園都市」を作り出して郊外住宅地を展開し、ターミナルにデパート、沿線に遊園地などを建設して一体となって街を作り出していったといわれています。
特にこのモデルを作り出したのが阪急の小林一三であり、その後東急の五島慶太や西武の堤康次郎が続いたというのが「電鉄」の物語となっています。
しかし、そういった鉄道会社の創業当初の様子を見ていくと、決してそのような整然としたモデルがあって進んだということはないということが分かります。
それでは実像はどうだったのか。
多くの鉄道会社の最初の目的が「社寺参詣」であったということは、諸資料を見ていけば間違いのないことです。
この本ではそういった電鉄の初期を詳しく明らかにしています。
近代大都市の形成に鉄道が大きな役割を果たしたということは、日本だけでなくヨーロッパやアメリカでも同様でした。
しかし、詳しく見ると違う点もあります。
それが、日本における「神社仏閣への参詣」という要素です。
ヨーロッパにも特定の聖地を訪れる巡礼というものがありますが、そのために鉄道を敷設したという例はありません。
ところが日本では明治20年代以降、参詣を主目的とした鉄道建設が数多く進みました。
実は、「住宅地開発」と「通勤通学輸送」のために登場した電鉄というものは、初期にはありませんでした。
そう言えるものは1920年代に入ってから建設された、目黒鎌田電鉄(現東急目黒線・多摩川線)や北大阪電鉄(現阪急千里線)からです。
それまでに建設された鉄道の主目的は「社寺参詣」と言えるものでした。
鉄道建設の初期から、讃岐鉄道、参宮鉄道 (それぞれ、現予讃土讃線、参宮線)といったものが参詣用路線として建設されました。
しかし、それは寺社側から働きかけて作られたわけではありませんでした。
ところが、成田鉄道(現京成電鉄)は成田山新勝寺がその計画当初から深く関わって作られました。
そもそも、新勝寺は江戸期以前にはそれほど大きな寺院ではありませんでした。
ところが江戸時代中期から盛んに営業活動を行ない、参詣者を江戸から呼び寄せることに力を入れ、どんどんと大寺院へと発展していきました。
他の寺院も同様に、明治になると多くは苦しい経済状況になったのですが、その時期に住職となった人々の経営手腕により、新勝寺はさらに発展することになります。
1880年に新勝寺副住職となった三池照鳳は自ら成田鉄道発起人総代となり、創立後には最大の株主となりました。
同様の状況が川崎大師平間寺と大師鉄道(現京急大師線)にも言えます。
川崎大師は今では押しも押されもせぬ大寺院ですが、江戸時代前半まではそれほどメジャーな存在ではなかったようです。
しかし、これも江戸時代中期以降積極的に宣伝を繰り広げ、徐々に人気を集めるようになります。
明治になっても次々と参詣客を集める施策がなされ、敷地を大幅に拡張したり、大師公園を作って参詣と併せて観光もさせようという手が打たれました。
参詣のための鉄道建設も数多くの人々から提案されていたようです。
その中で立川勇次郎と田中亀之助が設立した川崎電気鉄道が大師電鉄と改称して敷設免許を取得、建設したのが1899年でした。
これを利用した東京からの参詣客は増加し、特に初詣というものはここから発祥したものでした。
他にも多くの電鉄が開業していった大正時代後半以降、都市化が進行していくと別の問題が持ち上がりました。
東京都心では各寺院に墓地が併設されていたのですが、それではとても足らなくなりました。
本格的に郊外霊園ができるのはそれから少し後の時代になりますが、このような状況を何とかしなければと電鉄沿線に墓地を作って「葬式電車」を走らせようという計画が持ち上がりました。
京成電鉄が「宝城事業」と名付けた計画は1911年に動き始めました。
千葉県鎌ケ谷に広大な墓地を建設、そこまでの鉄道も通し、葬式電車を走らせようというものでした。
結局、この計画は立ち消えとなってしまいました。
それには自動車の発展ということも大きく関わっていました。
もはや時代は「霊柩車」を走らせる方向に動いていました。
いまさら電車に柩を積んで走ることは必要なかったのでしょう。
その後は電鉄を中心とした街づくりが進んでいく時代を迎えます。
しかし、今でも参詣電車が走る風景は残されています。