爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「中世の高野山を歩く」山陰加春夫著

高野山は現在でも一大霊場として存在していますが、その最初は弘法大師空海が9世紀に創建した小さな寺から始まりました。

その後もさほど大きな力を持つこともなかったのですが、11世紀頃から摂関家、王家の支援のもと繁栄するようになりました。

さらに13世紀から16世紀にかけて周囲の強力な宗教組織との抗争に勝ち紀伊國北東部の唯一の荘園領主としての道を歩みます。

そして16世紀後半からは天下の菩提所と自称するほどの日本最大級の正統派寺院としての座を確実にします。

 

現在の高野山の光景は多くの火災などのために中世のものとはかなり異なっています。

この本では11世紀から16世紀にかけての高野山の姿を様々な史料から描いていきたいというものです。

なお、著者は高野山で古美術店を営む家に生まれ、その後高野山大学で研究を続けたという、高野山を最も知り尽くしたという方です。

 

金剛峯寺は9世紀に空海が建て、他からも認められる存在感のあるものでしたが、10世紀には京都の東寺一長者に金剛峯寺の座主職を握られ、東寺の末寺的な状況に陥りました。

しかし11世紀以降には摂関家や王家の信仰を受け、多くの寄進で建造が進みます。

この時期に高野山信仰、すなわち高野山は特別な霊場であるという信仰が起き、ひとたび詣でれば弥勒菩薩の救いが得られるというものです。

さらに、弘法大師は亡くなったのではなく高野山奥之院の廟堂に生きているという、入定信仰も生まれます。

当時、藤原道長をはじめ多くの人々が高野参詣に訪れますが、その経路の三谷坂にわずかに昔お面影が残る場所もあるようです。

 

鎌倉時代になってもまだ東寺などの影響力が残っていたのですが、それから逃れようという努力で徐々に独立の道を歩みます。

その頃から室町時代初期にかけて、庶民の高野参詣も盛んになり、高野山上には宿坊が増えていきます。

またこのころには町石道と呼ばれる参道が使われるようになるのですが、その脇に距離を見るための卒塔婆札が立てられていたものが、徐々に石造りに代えられて行きます。

それが今に残る町石です。

 

永享5年(1433年)には金剛峯寺六番衆と衆徒方とが争い、衆徒方の要請を受けた紀伊國守護の軍が戦い、多くの死者を出し高野山上の寺院のほとんどを焼失するという、高野動乱という大事件が起こります。

これで中世の高野山の風景は失われることになります。

 

その後は高野納骨という風習も広がり、戦国大名墓所が作られるなど高野山の繁栄はさらに大きくなることとなります。

 

現在とは異なるとはいえ、やはり同様の役割を果たす霊場として中世の高野山も存在したのでしょう。