「白村江」、昔の歴史授業では「はくすきのえ」と読みましたが、今は読み方が不明とあって「はくそんこう」と読んでいるそうです。
中大兄皇子が皇位に就く頃、朝鮮半島では長く続いていた並立体制が崩れ、百済が滅亡に瀕していました。
一旦は敗れて王や王子など多数が唐に連れ去られていたのですが、百済の遺臣たちの反攻は続きます。
日本に人質として来ていた百済の王子、豊昇を送り返し王位につけて百済復興を目指し、最後の決戦として白村江で唐水軍と倭の水軍が大戦を戦います。
しかし、それで倭は大敗し百済も完全に滅亡と言うことになりました。
そのような白村江の戦いについて、詳しい経緯などをたどりました。
著者の遠山さんは、以前に別の本を読んだことがありました。
「天皇誕生 日本書紀が描いた王朝交替」遠山美都男著 - 爽風上々のブログ
その時の感想でも「日本書紀の記述だけをたどっている」と書いていますが、内容は完全に史実そのものとは言えない日本書紀の記述だけに基づいているという、独特な手法だったと言えます。
この本でもそれはほぼ同じです。
唐や新羅側の史料もひかれていますが、日本側の史料としては日本書紀を全面的に受け入れそれに沿った記述をしています。
史実として正しいのかどうかは分かりませんが、話の筋としては一本に通っており物語としても分かり易いものでしょう。
なお、この戦いで多くの人が戦死しましたが、他にも多数の人が唐軍の捕虜となり連れ去られて強制労働などをさせられました。
しかし、その後唐と新羅の関係が悪化したことにより、唐は倭との関係改善を望んで捕虜の送還などを行ったというのは両者の記録からも事実のようです。
それでも日本に帰還できたのが数十年も経ってからという人もあり、大変な苦労をしたのでしょう。
この戦いは、普通の解釈では「唐の圧倒的な軍事力に蹴散らされた倭はその後政治体制の整備や軍事力増強に努めた」ということになりますが、本書では違います。
何より、その戦いに臨んだ軍船の数が唐側170艘に対し、倭軍は400艘以上であったようです。
その船の装備に大差があったとも考えられますが、実際はそれほど差がなかったようです。
逆に、倭軍側があまりの戦力差に油断し、さらに統率体制がまったく整っていなかったことが圧倒的な敗戦の理由だったとされています。
いずれにせよ、このあと百済の人々が数多く日本に逃れてきてその後の日本で大きな勢力となりました。
この大きな歴史の転換点、もう一度見直してもよいことかもしれません。