爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「昭和『娯楽の殿堂』の時代」三浦展著

もうかなり昔のような気がする「昭和」の時代には、「娯楽の殿堂」という言葉がありました。

そしてそれは都会、とくに東京という場所と結びついていたように思えます。

今でも確かにリゾートホテルを中心とした観光施設などが地方にある場合もありますが、東京圏の中に気楽に行けるような「娯楽の殿堂」というものがあったというのは、昭和という時代と重なり合った記憶があるようです。

 

その典型的なものが、本書も最初に語られている「船橋ヘルスセンター」でした。

 

これは東京圏でかつて暮らしたことのある人には懐かしい存在でしょう。

いまだにあのテーマソングを覚えている人も多いのでは。

他にも「ヘルスセンター」と称する施設は多かったのでしょうが、その中でも代表的で最大のものが船橋ヘルスセターだったのでしょう。

 

船橋ヘルスセンターは昭和30年(1955年)11月に営業開始しました。

最初は温泉、サロン、パーラー、売店、広間、温泉プール、屋外児童遊技場だけだったのですが、営業を続けながらわずかの間にどんどんと新築、増改築が続けられます。

1年の間にゴルフ練習場、離れ広間、遊園地、新館、客室、商店街が開設。

さらに続けてローラースケート場、大コマ館、大滝風呂、トルコ風呂、飛行場!、水上スキー場、ボクシングジム、野球場、テニスコートなどありとあらゆるレジャー施設がそろった総合観光施設が出来上がりました。

 

実は船橋市の海岸は戦前から埋め立ての計画があったのですが、戦後すぐから事業が始まります。

最初は工場誘致を考えていたそうですがうまく行かず、ぬるま湯が湧き出たためにそれを使って温泉施設を作ることになりました。

行政の影響下で社団法人で事業化するつもりだったものが、宝塚の小林一三に相談したところ絶対に無理と言われ、売薬業などで事業をやっていた丹沢善利氏に経営を依頼することになりました。

丹沢は「男も女も、子どもも楽しめる娯楽場を」作るという方針の元、温泉を中心として様々な娯楽施設を備えた総合施設、ヘルスセンターを作ることにします。

それまでの娯楽施設「歓楽境」というものはともすれば成人男性だけの愉しみの場というものでしたが、それと異なる健全な観光施設を目指しました。

温泉に入って劇場で芸能人の舞台を楽しみ、子どもは遊園地で遊ぶというスタイルが人気を呼びました。

ここでショーを開いた芸能人には、三波春夫橋幸夫島倉千代子、タイガース、ドリフターズなど当時の人気芸能人が多かったのですが、一方では同じ舞台で素人のど自慢も開催されるなど、色々な楽しみ方ができるようになっていました。

昭和38年に東京の主婦を対象におこなった調査では、「船橋ヘルスセンターを知っている人」は91%と非常に高い知名度を持っていました。

また「行ったことがある」人はその時で39%だったのですが、すでに当時は特に山の手では「ヘルスセンターは野暮で老人向き」だというイメージが強くなっていました。

その後は昭和40年代半ばからは徐々に客足が遠のき、昭和52年には営業終了となりました。

その後の跡地は56年に「ららぽーと」となりました。

もうあの「船橋ヘルスセンター」というイメージを持つ人は60代以上になってしまったのでしょうか。

 

本書では他にも「江東楽天地」「池袋ロサ会館」が取り上げられていますが、これはまったく知りませんでした。

もう亡くなった私の父や兄なら聞いたことが(行ったことも?)あったかもしれません。

他に昭和40年代に大ブームとなったボウリング場、府中・中山競馬場、無数の寄席などについても書かれています。

ボウリングは父親がのめり込んでしょっちゅう通っていました。

マイボールだけでも数個用意し、ボウリング場によって替えていたという、こだわり?でした。

その行きつけのボウリング場も本書収載の「東京ボウリング場マップ」にありました。

「平井マタイボウル」懐かしい響きです。

しかし、昭和47年の全国で12万レーンをピークに減少し始め、昭和51年にはボウリング場の数が4分の1に減少したという、急激な落ち込みだったようです。

 

久しぶりに忘れかけていた懐かしい言葉を聞きました。

 

昭和「娯楽の殿堂」の時代

昭和「娯楽の殿堂」の時代

  • 作者:三浦 展
  • 発売日: 2015/04/24
  • メディア: 単行本