フランス人は会話好きだそうです。
そして、自らの言語のフランス語の美しさというものも誇りに思っているようです。
そのような、フランス語というものは自然にできてきたばかりではありません。
かなり意識的に磨き上げようとした人々がいました。
17世紀、ようやくフランス全体が統一され王権が強化されたころに、パリに多くの「サロン」と呼ばれる社交場ができました。
そこでは、現代にあふれるパーティーとは違い、高度な知識と文化的な会話を楽しむ人々が、しのぎを削っていました。
そういったサロンの中でも最上と言われていた、ランブイエ侯爵夫人のサロンでは、当代一流の文化人が集い、洗練された会話を楽しんでいました。
この本では、その主催者であったランブイエ侯爵夫人と、サロン参加者の中でももっともフランス語の磨き上げということに尽力したクロード・ファーブル・ド・ヴォージュラという人物に焦点をあて、紹介しています。
17世紀の初頭、フランス国王アンリ4世と王妃マリ・ド・メディシスの間に後のルイ13世となる王太子が誕生しました。
そのころからフランス国内はようやく長い動乱から安定に向かって進みます。
パリでも王侯貴族たちの社交も盛んになり、新しい都市文化が発展します。
サロンと呼ばれる貴族の館を舞台としての社交が始まります。
16世紀前半にはパリ市内に60ものサロンが開かれていましたが、その中でも随一と言われたのがランブイエ侯爵夫人のサロンでした。
ランブイエ侯爵夫人、カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌはローマ生まれ、父親はフランス王に仕えた貴族でしたが、母はローマの名家サヴェッリ家の生まれでした。
幼い頃にパリに移りその後はフランスで過ごします。
当時はまだフランスは文化的に遅れているという感覚が強く、先進のイタリアの香りが強いカトリーヌは注目されました。
その後、ランブイエ侯爵となるシャルル・ダンジェーヌと結婚しカトリーヌは子供の教育のためと称し宮廷から身を引きます。
これは、実は当時のフランス王宮廷がまだ洗練された紳士たちの集う場所ではなく、戦士たちが闊歩する荒々しい場所であったからでした。
そして、カトリーヌは自らの館に客を招き社交の場とするサロンを開くことになります。
その「青の部屋」には詩人ヴォワチュールを中心に多くの貴族・文人が集まり、知的な会話を楽しんでいました。
そこに重要な位置を占めていたのがヴォージュラでした。
ヴォージュラはフランス東部のサヴォアの貴族でした。
サヴォアは当時はフランスとは別の公国で、ヴォージュラもフランス語の他イタリア語、スペイン語も自由に操ることができました。
しかし、その中でもフランス語に最も惹かれ、その言語学的な向上を目指しました。
ランブイエ侯爵夫人のサロンでもちょっと変わった人と見られたものの、その学識は尊敬されていました。
その後、宰相リシュリューが設立したアカデミー・フランセーズにヴォージュラも参加し、フランス語辞書の編纂に当たるのですが、遅々として進まず完成には至りませんでした。
しかし、その過程に得られた知識を「フランス語に関する注意書き」として出版し、それは当時のフランス語の一般人向けの手引きとなりました。
フランス語も使われているうちにだんだんと変わっていきます。
「慣習」という言語の変化の要因により移り変わっていくのですが、そこに「純正さ」と「明確さ」というものを柱として変えてはいけないものは変えないという姿勢を打ち出しました。
著者が最後に述べているように、会話を楽しむにはやはり「会話の技術」が必要だということです。
フランス人は我々よりその「会話の技術」に長けているようです。
我々も「会話の場」を増やし、その「会話の喜び」を享受できるようにするべきであるとしています。
現代の日本人の「パーティー」、いや「飲み会」はとてもこういったものには達しないようです。