「事大主義」という言葉は、最近では韓国の政情に関わるものであるような感覚を持っていましたが、実は色々な場面で使われてきたもののようです。
「事大」つまり、「大」に「事える」(つかえる)という言葉自体は中国の古典にあるもので、孟子の一節にあります。
小国が大国に仕えるのは当然という趣旨であり、人間の思考がどうとかいう意味ではなかったようです。
しかし、事大主義となると変わってきます。
「主義」という言葉が付いている以上、これは明治期以降の日本が発祥であることに間違いはありません。
実は、この言葉を作り出したのは福沢諭吉であったようです。
福沢の主宰した新聞「時事新報」が朝鮮情勢を報道した中で、当時の独立を求めた勢力に対し中国(清)に従う勢力を「事大党」であるとしたものです。
時事新報で記事を書いたのは複数であり、署名はなかったためこの記事が福沢のものと断定はできないのですが、その後の言動を見てもその可能性が強いようです。
しかし、このような生まれの「事大主義」という言葉はその後どんどんと独り歩きしていきます。
朝鮮の中の一部の勢力を示すはずだったのが、朝鮮全体が「大に付く」事大主義に毒されているという、侮蔑的な見方が広がっていき、朝鮮と事大主義が結びついていきます。
ところが、その後朝鮮自体を日本が併合してしまいました。
他者をののしる見方であった「事大主義」の相手が、一応自己の内部に入ってしまいました。
朝鮮民族を侮蔑する感情がなくなったわけではないでしょうが、「事大」の「大」は日本ということですから、事大主義を批判するわけにも行かなくなり、この事大主義という言葉自体があまり使われなくなったようです。
それとともに、思想や学問の発展で朝鮮だけでなく日本の内部の社会に対しての分析も進むようになると、「事大主義」は朝鮮よりも日本内部にあるのではないかと言うことに気付く人もでてきます。
ジャーナリストの桐生悠々は事大主義は人類普遍の行動原理だとしました。
さらに、朝鮮併合後の人々の日本統治への反抗は、朝鮮人が事大主義という理解に反するものでした。
もしも本当にそうであれば、現在の支配者である日本に反抗することなどないはずなのに、抵抗や反乱が相次ぎます。
柳田国男は日本民俗学を考えていくにつれ、日本人にその事大主義が溢れているといことに至ります。
実は、柳田の「民俗学」は事大主義に流されない自律性の涵養のために立てられたということもできます。
こういった見方は広く広がっていき、「事大主義の打破」が選挙で叫ばれるようにもなります。
こうして、この時代には「日本の事大主義」が主要な関心事であったことになります。
太平洋戦争で敗戦したのちも、事大主義についての論争は続きました。
事大主義が敗戦の要因だという議論もされました。
その後は「事大主義」という言葉が登場する機会は少なくなりました。
しかし、それはその事実自体が無くなったわけではありません。
どうやら、「空気を読む」という表現がそれに代わったようです。
言い表している事実はほぼ同じものです。
「KY」などと言う言葉が通用していうということからも、いまだに「事大主義」が日本全体を覆っているのは間違いないようです。
朝鮮半島では、「事大主義」は別の道をたどりました。
もともと日本から朝鮮を批判して使われた言葉ですが、朝鮮半島内ではそれほど使われることはありませんでした。
それが、日本敗戦で朝鮮半島が北と南に分かれたあとになって進化を起こしました。
北朝鮮、大韓民国のいずれも東西の大国に従っていなければなりませんでした。
そのため、双方が相手を批判するのに「事大主義」という言葉を使ったのでした。
その当時はその論戦では北の方が若干有利でした。
そのため、南のアメリカにつかえるだけの事大主義者に対し我々は「主体思想」であるとしたのでした。
南の朴正熙政権は軍事クーデタで政権を取りますがその後の成長戦略により漢江の奇跡と呼ばれる成長を遂げます。
この過程で、政権側は反政府勢力は北や中国・ソ連などにつかえる「事大主義者」だという宣伝を用います。
韓国の新聞で「事大主義」という言葉が使われる回数を年度別に調べると、朴正熙が大統領に就任した1963年が突出しているのですが、それに次ぐのが金大中や金泳三が活発に活動する1971年頃からのことでした。
朴政権は初めから政敵を「事大主義」として攻撃する戦術を取っていました。
どうやら、事大主義という言葉は朝鮮、日本、沖縄の東アジア各地で、様々な関わり合いの中で使い続けられたようです。
他者を「事大主義」と批判する際には、自分の事大主義的な部分は意識されません。
しかし本当にそうなのかどうか、内省する必要があるのでしょう。
「他者にはった”事大主義”というレッテルは自己を映し出す鏡である」ということです。