リベラルという言葉は聞いたことがあります。
欧米の政治勢力で保守とリベラルというのが対抗しているという程度の印象ですが、正確な定義などははっきりとはしません。
日本でも一時はリベラルということが言われたようですが、現在ではすっかり忘れ去られているようです。
そのようなリベラルについて、政治学者の田中さんが西欧でのその始まりから現在まで、そして日本における状況についても詳しく解説してくれます。
リベラルという言葉は文字通りにとれば自由または自由主義の形容詞、および自由を支持する人々という意味になります。
しかし自由主義という言葉自体非常に多くの側面を持つものであり、どれか一つに絞るということもできません。
ところがリベラルと言う政治的立場というものはどういうものかということには大体の同意が得られているようです。
それは、20世紀初頭に成立し、第二次世界大戦後の先進諸国に広まった政治的立場でした。
1970年以降、リベラルはさまざまな挑戦を受け今なお刷新の途上にあるということです。
ヨーロッパでは封建勢力に対抗して自由を掲げる改革勢力が自由主義者すなわちリベラルでした。
彼らは経済的な自由主義を守ろうとし小さな政府を求め市場の自由を重視しました。
しかしアメリカでは自由放任主義が伝統であったため、20世紀になると政府による雇用政策や社会保障政策を求める勢力が出て、それを「リベラル」と呼ぶようになりました。
そのため、アメリカとヨーロッパでは最初のリベラルの意味は逆転していました。
第2次大戦後の先進諸国では保守勢力とリベラル勢力と言う、文化的な価値観が対抗する2大勢力が争います。
これは産業構造が変化していき工場での製造業中心であったものがサービス業などの第3次産業へと移っていくことで、それに従事する人々にリベラルな価値観を持つ場合が多かったからのようです。
工場の労働者は経営者とは対立するもののその価値観は保守的なものであり、リベラルとは相容れないものでした。
しかし先進国に経済が停滞していく1970年代以降、リベラル・コンセンサスは批判にさらされ解体に向かいます。
新自由主義と言われる人々が現れ1980年代にはイギリスとアメリカで政権を取り実践に移しました。
他方では都市部の中産階級を中心にして価値の多元性と自由なライフスタイルを掲げる「文化的リベラル」が登場します。
さらに1990年代以降グローバル化が進行し、先進国ではインサイダーとアウトサイダーの二分化が進行していきます。
インサイダー(正規雇用者)はすぐには減らなかったものの、若者や女性を中心にアウトサイダー(非正規雇用者)が急増していきます。
2000年代になるとワークフェア競争国家と呼ばれるものと、第三極として排外ポピュリズムが伸びてきます。
日本の場合は自由主義というものの基盤が無かったため、リベラルというものも力を持ちませんでした。
憲法や軍事力をめぐり自民党などの保守に対して野党が「革新」と呼ばれ対抗することが続いてきました。
ただし、現在の社会情勢は国際的に共通のものが多く、日本の独自性だけを強調するのは間違いであるということです。
リベラルの主張としてよくある「福祉国家」はかえって自民党が主張しています。
ただし、その内容はとても福祉国家などと言えるものではなく、お粗末なものですが。
ほとんど国として取り組むこともなく、企業任せのものであり企業が力を失うと福祉も無くなって行きました。
自民党政権では橋本・小泉が新自由主義的な改革をしようと試みました。
しかし小泉が退くとそれを継承することはなかったのです。
民主党政権の挫折のあと、第二次安倍内閣以降では国家が前面にでて人々を就労へと動員する政策を打ち出しました。
女性や高齢者の就労促進という政策ですが、これがワークフェア競争国家というものです。
何もしない人に福祉を与えるということではなく、自ら動こうという人だけを助けるというものです。
これで日本の課題が解決されるのでしょうか。
著者はそれに対して「日本の三重苦」があると指摘しています。
第一に恒常的な財政赤字の拡大。
第二に少子高齢化の急激な進展。
第三に格差の固定化。
このような三重苦を解決するにはその政策は少なすぎるということでしょう。
それに対するリベラル勢力も存在しなくなった今、出てくる可能性があるのはポピュリズム勢力のようです。
しかし政治的に力を得なくても「個人の自由」や「ライフスタイルの自由な選択」を求めようとする価値観は増大する一方です。
それは明らかにリベラル的価値観であり、リベラルもまだ存在感があるということです。