江戸時代も後期になると町人文化が爛熟し、料理店も高級になっていき、「八百善」「平清」「嶋村」といった一流の料亭が栄えるようになります。
その中で、日本橋浮世小路に「百川」という料亭がありました。
明治になって忽然と消え失せてしまったので、後には忘れられてしまったのようですが、当時は八百善などを上回るほどの繁盛ぶり、名だたる文人墨客が頻繁に訪れていました。
大田南畝、山東京伝、谷文晁などをはじめとして、多くの著名人が訪れていたようです。
日本橋浮世小路(うきよしょうじ、と読む)は現在の三越本店の向かい側のあたりです。
そこに19世紀に入ってから百川茂左衛門という人物が長崎仕込の卓袱料理の店を開きました。
ところが、卓袱料理というだけではすぐに客から飽きられてしまったのか、徐々に様々な料理を出すようになり、それが多くの文人墨客に評判となり、彼らが頻繁に通うようになります。
大田南畝など、百川の常連を山手連と呼ぶようになったのですが、彼らは頻繁に百川で狂歌会やさまざまな趣向の会合を開き、その後で宴会といったことを行うようになります。
そのような会合を詳細に描写されていますが、それには触れません。
また、凝りに凝った料理の数々についても省略します。
一つだけ、浮世の煎り酒という調味料について。
江戸前の白身魚、鱚や真子鰈の刺し身には当時はつけダレとして醤油は使いませんでした。
真っ白な魚を黒い醤油で汚すのは野暮だという感覚があったようです。
そこで、煎り酒とワサビで食べるということでした。
煎り酒というのは江戸時代には広く使われたもので、酒を煮詰めてそこに塩を加えるものでした。
ところが、山手連の人々は、その煎り酒では少々味気ないと思いました。
そこで、どうすればもっと良くなるか、討論会を開きました。
そこで出てきたのが、精進節と呼ばれるもので、これは堅めの豆腐に塩をまぶし乾燥したところに下げて半年置くとカビが生じるので、それを落としてから鰹節と同じように削って使うというものです。
これを使った出汁を使うとアミノ酸に加えて酸味も出るので刺し身のタレに良いということです。
百川の最後の大舞台が、幕末のペリーの来航の時に、それを饗応するための料理を作ったということでした。
その饗応の担当が、幕府応接掛五人衆のひとり、儒者の松崎満太郎でした。
彼は多くの料理屋に当たりましたが、やはり百川しか無いと考えたのでした。
当時の日本の料亭としての最高峰と考え、百川にすべてを任せました。
アメリカ側、幕府側合計500人の大宴会で内容も最高級のものを一人前3両で請け負うということでした。
通常の百川の店で出す最高級の料理の10倍の価格、500人分で現在の金額にして1億5000万円の大饗宴でした。
百川の総力をあげての饗宴は無事に終わりましたが、アメリカ側の反応は厳しいものだったようです。
魚料理などはほとんど食べたこともないアメリカの兵隊に最高級日本料理を出しても無駄なことだったのでしょう。
そして、その後明治になってすぐに百川は消えてしまいます。
その経緯はほとんど知られていませんが、他の一流料亭はしばらくは営業を続けられたのと比べて意外なものでした。
これは、どうやらペリー饗応の大宴会がその理由だったのかもしれません。
総額1億5000万円の大饗宴だったのですが、幕府がそれをきちんと支払ったのは疑わしいことです。
それでなくても倒壊寸前の幕府にはそれを払うだけの余力が無かったのでしょう。
結局、幕府と心中するように料亭百川も消えてしまいました。
わずかに、その料理内容を記した文が散見されるのみです。