2006年に中日新聞の年間企画として社会面で連載された「この国のみそ」をまとめて一冊の本としたものです。
その当時(今でもあまり変わっていないかも)は「ナゴヤは活気がある」と言われていました。
それがなぜなのか、そこを取材してみようというのが目的でした。
海外から日本人を評したものといえば、
「技術力は高いが、黙々とやる職人」
「オピニオンリーダーになりたがらない」
「目立たず地味に」
「冒険は好まず地道」
こういった日本人評というものは、実は日本の多くの人が「ナゴヤ」を評した時に出てくる言葉とそっくりです。
つまり、いわゆる「ニッポン人」って「ナゴヤ人」のことなのでは。
古代から、大和朝廷はヤマトにあっても、尾張、三河というのは重要な位置でした。
ヤマトタケルの奥さんは尾張の有力者の娘のミヤズヒメ、継体天皇の妃も尾張の豪族尾張氏の娘でした。
さらに、戦国を収めた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいずれも尾張三河の出身で、江戸時代の大名家の半数以上がこの地の出身者の末裔だったそうです。
1980年代のバブル期に、東京や大阪では不動産投資のための融資というものが過熱しましたが、ナゴヤではマンションは住むためのもの、投資目的らしき客はほとんど居なかったそうです。
バブル崩壊後、地価の下落率は首都圏関西圏では70%以上にも達したのに対し、ナゴヤ圏ではその半分程度でした。
土地投機が穏やかった分だけ、バブルの傷も浅かったようです。
これは企業の場合も同様で、バブル期でもメーカーでは土地投資などはせずに研究開発に力を入れるところが多かったとか。
それがバブル崩壊後の余力となって、その後の発展が見られました。
名古屋駅前の双子の塔、セントラルタワーズも2000年の開業でそれを象徴するものでした。
ただし、そこに入居したのは高島屋、それまでのよそ者には冷たいというナゴヤの風習とは少し変わってきたのかもしれません。
名古屋を含む地域は日本列島の東西を結ぶ中心部であり、流通の拠点ともなってきました。
江戸時代には日本海を回る北前船が有名で、江戸と大坂を往復する菱垣廻船もありましたが、その隙間を埋めていたのが実は「尾州廻船」だったそうです。
北前船や菱垣廻船は小回りが効かずに定期的にしか動けなかったのに対し、尾州廻船はゲリラ的な動きで実質的な流通の鍵となっていました。
それは東西の物資を運ぶのと同時に、東海地区の商品を各地に運ぶ効果もあり、ミツカン酢や常滑焼渥美焼といったものが全国に届けられました。
これもこの地域の工業生産の基礎を高めることにつながりました。
名古屋の味噌の代表格といえば「八丁味噌」です。
岡崎が本場ですが、今では名古屋もその本拠地となっています。
徳川家康は岡崎の出身ですので、八丁味噌の本場の出なのですが、家康が天下を取っても八丁味噌が全国に広まらなかったのはなぜかというのが謎になっています。
家康は実は八丁味噌は好みではなかったのではないかという説もあるようですが、家康の元へ豆味噌が送られていた記録はあるようで、本人は豆味噌を好んだのは間違い無さそうです。
名古屋の中心にほど近いところに覚王山日泰寺というお寺があります。
これは、明治時代にインドから発掘された「御真骨」本当にシャカの遺骨とされるものが収められているところです。
発掘したイギリスからそれを託されたタイの国王が、世界の中でミャンマー、スリランカ、日本にその一部を分与することにしました。
しかし、日本の中でどの寺に納めるかで、国内の仏教各派は大騒ぎとなりました。
まとまらないかと思ったところで、現在の名古屋市内、旧田代村の村長が土地の寄進を取りまとめ、名古屋の政財界から浄財を集めて一気に話を決めてしまい、そこで無宗派で建てたのがこの日泰寺だということです。
(なお、最初の寺名はシャムからとって日暹寺だったのですが、シャムがタイと国名を変えたので「日泰寺」と改名しました)
やる時には一気にやってしまうという名古屋人の行動力でしょうか。
私は幼児期から小学校1年まで名古屋に住んでおり、叔母一家も在住、名古屋というところには縁の深いものを感じます。
特に、日泰寺は住んでいた家のすぐそば。
懐かしい所です。