言論の自由、表現の自由と言われますが、現代の日本でそれが完全に守られていると思う人はないでしょう。
かといって、政府の批判をしただけで投獄される某国、宗教の批判をしたら殺される某国と比べるとマシかもしれません。(”某国”とぼかさなければいけないのも”自由”でないからでしょうか)
本書冒頭でも永江さんは「日本という国はそこそこ自由な国である」と書いています。
「完璧に自由」とも「まったく自由だ」とも思えないのですが、「自由がない」とも思えない。
あくまでも「そこそこ」である。
現代日本では、政府批判をしただけで投獄されるということはありません。(多分)
しかし、ある部分では何か書いたり言ったりすると様々な圧力がかかります。
それを避けるために「自粛する」ということがあるのは紛れもない事実です。
本書では、そのような「自主規制」を”タブー”、国家や行政の制限を”法規制”と呼ぶこととして、学術的な考察ではなく本や雑誌、新聞などを書いたり編集したり、売ったりという場面を通して考えようということです。
誘拐事件などが発生すると、報道各社が揃ってニュースを流すのを控えるという、「報道協定」というものがあります。
これは警察が命令したり依頼したものではなく、報道各社が「自主的に」実施しています。
しかし、警察などは報道が邪魔だと感じているのは確かです。
一方、報道はできるだけ何でも報道したいと思っています。
そのギリギリのラインでしかたなく?誘拐事件の場合だけ協定を結んでいるということになっていますが。
タブーの最たるものが「皇室タブー」です。
他のタブーと大きく異なることが2つあり、1つは「あからさまであること」です。
他のほとんどのタブーは普段は隠れていてなかなか見えないものですが、これだけははっきりと、誰もが知っています。
2つ目は、ときには暴力を伴うということです。
このタブーに触れると、時には命を奪われたり傷つけられたりすることもあります。
これが、疑いもなくこのタブーを強いものとしています。
宗教タブーも強いものです。
オウム真理教事件でも、様々な犯罪が明らかになるまでは、宗教団体ということで報道や捜査のタブーが存在しました。
その他の宗教団体でも報道が扱うのに及び腰になるというものがあります。
これには、暴力の報復があるとまでは言えないものの、教団や信者たちの抗議が執拗であるということも関わってきます。
ビジネス関係のタブーというものは、目に見える形のものは少ないのですが、厳然と存在するというものがあるようです。
出版に関して言えばスポンサー、クライアントというものについてのタブーは相手がはっきり言わなくても自主規制をしてしまうというものが多いようです。
著者は、かつてJR西日本が単独スポンサーであった雑誌にときどき寄稿していたのですが、福知山線の大事故があったあとに、JR西日本はその雑誌の編集部に奇妙な要求を出しました。
「事故を想起させるような表現をしないこと」というものでした。
事故に関する直接的な言及だけでなく、「血」とか「死者」という言葉も使わせない。
小説の引用もチェックしたそうです。
一般商業誌においても、広告主の批判は最大のタブーとなります。
広告のない雑誌というものはほとんど存在しません。
例外は「暮しの手帖」くらいのものです。
ただし、そこでの広告主への忖度は、JR西日本の雑誌への介入のようにはっきりしたものではなく、広告主から何かを言われなくても編集者が自主的に制限することが多いようです。
タブーという、このような自主規制によるようなものばかりでなく、日本にはまだまだ国や行政からの規制も数多く存在します。
「わいせつ罪」というものもその一つで、出版の自由、表現の自由と大きく関わります。
刑法175条に定められていますが、この原文は明治40年に定められた旧刑法を1947年にほぼ仮名遣いだけを改められただけのもので、100年以上前の倫理観、法感覚で作られたものです。
ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」の和訳本を巡って起きた「チャタレイ裁判」や、永井荷風作とされる「四畳半ふすまの下張り」の裁判などが有名です。
それらの判決で、有罪となっていますがその裁判所の判断も曖昧なままでした。
タブーというものは、一方では個人の利益や人権とも関わります。
プライバシーを侵害するような報道や文芸をどこまで許すか。
政治家や著名人など、プライバシーが制限されても仕方のない立場の人も居ますが、たとえば政治家の未成年の子女のプライバシーはどうなのか。
タブーは人間社会からなくなることはないでしょう。
それは、ちょっとずつ破っていく快感とも関わります。
そんなものない方が良いとも言えない。
ただし、無意味な法規制は無いほうが良いでしょう。