「内田樹の研究室」を見ていたら、学習指導要領が改定され「論理国語」という科目が登場するということを解説されていました。
blog.tatsuru.comちょっと油断していると、こういうおかしな変化にも気づかないままということがあるようです。
高等学校の選択科目で、「論理国語」と「文学国語」を分離するということです。
まあ、ちょっと見ただけでも「文学」には「論理」がないと言わんばかりの浅はかな思考だという感触です。
これについて、内田さんは「すばる」という本のインタビューを受けて語ったので、その内容を紹介されています。
内田さんは、兵庫県の国語の先生たちに講演するための打ち合わせで担当の先生たちと話をしたそうですが、いずれも「論理国語」の出現にとまどっていたとか。
そして、その試験の例というものを見せてもらったそうです。
そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。
契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。
どうやら、「ある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的」ということのようです。
ここで、「文学的な日本語を味わうのも大切」と行くのが普通でしょうが、内田さんのユニークなところは次の部分に現れています。
それは「論理は飛躍するから面白い」ということです。
どうやら、「論理国語」に出てくる「論理」とは、あーすればこーなるからあーだこーだ。といった、極めて初歩的な、(つまらない)論理だけのようです。
ところが、マルクスやフロイトといった知性の巨人たちは、そのようなつまらない一歩一歩の論理などではなく、「飛躍する論理」を操って高度な思考を成し遂げたと言っています。
そのような、「論理の飛躍」をするためには、知的な「勇気」が必要です。
文科省でくだらない「論理」を操っているつもりの役人たちに、一番無縁であり彼らも避けているのが「勇気」です。
彼らは「上の顔色をうかがい」「怯え」「恐怖心を持つこと」で階段を上がってきただけであり、そおには「勇気を持つ」ということは含まれていません。
内田さんの最後に強調している言葉が「論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。」ということです。
ほんとに、良いこと言いますね。