いつもの散歩コースを歩いていて、これまでは見かけてはいても気にもしなかった看板に目が留まりました。
古いソロバン教室の看板で、もう何十年も上がったままのものです。
「右脳(ひらめき)人間になるには算盤」というシンプルなものでした。
これまでも何度も見かけている看板ですが、今日はそこに引っかかりました。
「右脳=ひらめき」なの?
右脳を鍛えるには算盤なの?
「ひらめき人間」って何か良いことあるの?
等々です。
散歩の途中でもこういった頭の働きがすぐにスタートするというのは、我ながら大したものですが、路上で考え出すのは危ない限りです。
まああまり車も通らない道なので良いのですが。
さて、脳の働きを考える脳科学というものが盛んに研究されているようですが、まだまだ発展途上であるのは間違いないことでしょう。
と言うか、まだ「言ったもの勝ち」「裏付けなし」「科学かどうかも分からない」といった段階でしょうか。
それでも「右脳はひらめき」といった右脳左脳の役割分担といった言説はかなり有力なようです。
ちょっと検索してみましたが、どうやら学界の研究テーマとしてはあまり実施されていないようで、それ以外の人々からの発信が多いようです。(怪しい?)
左脳は論理、右脳はひらめきとか、左脳が言語、右脳が芸術とか。
それと右半身左半身のコントロールといったものを絡めたり、さらに左利き有利ということも出てきます。
そもそも「ひらめき」がある方が良いのか。
「ひらめき」と対比する概念は「論理」でしょうか。
論理的な考え方だけではだめだということは言えるのかもしれませんが、どうも「論理」も「ひらめき」も欠けている人間が多いようにも感じます。
あの元総理も「ひらめき」だけのアベノマスクなんていう政策もありましたが、論理に欠ける政策連発、いや金勘定だけはできていたのは右脳のせいだったのでしょう。
まあ右も左も問題ということかもしれませんが。
おそらく、本当の意味で「論理的思考」ができているかどうかではなく、「型にはまった思考しかできない」人間になっては困るから、「算盤を習ってひらめきを身に着けよう」という想いで書かれたのが頭書のソロバン教室の考えなのでしょう。
もちろん、「論理」も「ひらめき」も両方揃ってこそ有能な人間ということです。
ただし、この双方ともに鍛錬し養成していくことはそう簡単なものではないように感じます。
「論理的な人間」と呼べる人がどれほど存在するのか。
「天才的なひらめきを持つ人」などは、本当に天才だけかもしれません。
まあ少しでもそれに近づけるよう意識していくことが必要なのでしょう。