爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「倭国 東アジア世界の中で」岡田英弘著

この本も最初に読んだのはかなり昔になります。

昭和52年に初版発行ですので、その直後に買ったとすれば大学時代ということになります。

 

若い時から歴史それも特に古代に関心が深く色々と本も読んでいましたが、この本はその中でも非常に刺激的なものでした。

 

それまでの本は邪馬台国が大和なのか九州なのかといった重箱隅論争や、古事記日本書紀の読み方といったものばかりで、何か細部だけをつついているような印象のものが多かったのですが、本書は副題にもあるように、「東アジア世界」というものの中で日本をとらえるという、広い視点からのものであり、読んでみて興奮すら覚えたものでした。

 

今回、改めて読み直してみると、さすがに色々と本を読み歩き批判眼ばかりが強くなったためか、あちこち気になる穴も数々見られますが、それでも大筋は納得させられるものが多いように感じます。

 

本書まえがきにも著者の考えの基盤が描かれています。

やはりそれまでの日本史学界の風潮に対して批判的に構築した歴史観ということで、それまでの日本書紀依存史観や、考古学偏重史観、そして日本史・朝鮮史・中国史の専門家がまったく連絡なしに我道を行っているという現状を批判、それを乗り越えようとして研究してきたとしています。

 

その結果としての日本古代を一言で言えば、「日本を作ったのは中国、日本文化を創ったのは華僑」であるということです。

 

隋が中国統一を果たし建国した直後の紀元608年に倭国から使者がやってきました。

その翌年、隋の文帝は裴世清を答礼使節として倭国に派遣しました。

その紀行文が隋書東夷伝に納められていますが、その記述は日本書紀などのものとまったく相違するものであるのに、それを問題としたものがなかったそうです。

 

そこに描かれた倭国までの道のりでは、対馬国壱岐国はまったく別の国家としてあり、さらに筑紫国を経て東に向かうと、途中には秦王国と称する国がありその住人は中国人であったそうです。

筑紫から東の各国は倭国の属国であるものの独立国、対馬壱岐は属国でもない。

これは日本書紀を基に作られた古代国家の常識からかけ離れた状態です。その頃にはもはや大和朝廷が日本の大部分を治めていたことになっていますから。

それほどに、中国側資料と日本独自の資料とがかけ離れているということです。

魏志倭人伝だけではありません。

 

日本周辺の古代史を考える上では、朝鮮半島の情勢は密接に関係しています。

日本書紀史観から言うと、独自に発達し成立した大和朝廷は力を付けて半島に進出といった筋書きになっていますが、そんなはずもありません。

 

朝鮮半島には様々な民族が原始的な集団を作っていましたが、中国からも多くの移民などが入り込んできました。

その結果、漢王朝時代には楽浪郡帯方郡といった漢の直接の支配が及んでいます。

そのような状況下で日本には目が届かないなどということがあるはずもありません。

日本列島にも多くの中国人が入り込み、華僑として商業活動などをしていたと考えられます。

そして、現地の実力者と華僑の協力した政体が漢書にも記されている倭人の諸国であろうということです。

 

その後、漢が衰え三国時代以降の争乱の時代になりますが、この時の人口激減というものは激しいもので、中国の総人口が急減してしまいます。

当然、対外的な活動も不可能となりますが、その時期の外国からの使者来訪というのは中国側にとってもありがたいもので、邪馬台国使者というのもその実像以上に歓待されたようです。

それは、魏の国にとっても良い国力誇示の宣伝にもなったということで、それが魏志倭人伝の誇張とも取れる内容につながったようです。

 

しかし、倭国側の実情というものは、実際は7世紀になっても各地の政権が林立していたような統一とは程遠いものでした。

 

それが、663年の白村江の戦いでの唐との直接の対戦と完膚なき敗戦で変わってしまったそうです。

唐の日本への来襲も予測される中で、分裂していた各地の政体も統一させ、文化的にも一つのものを作っていくという、民族国家としての始まりとなったという解釈です。

 

その中でできてきたのが、日本書紀などであり、そこにはそういったイデオロギーが強く反映されたものになっています。

 

とはいえ、この後半の日本書紀批判の部分はその根拠も省略されているのか、はっきりせず「これはこんなはずはない」と断定しているだけという、やや薄弱な論理と感じるところでした。

もちろん、これは一般向けの解説書であり専門家同士の論争の資料ではありませんので実際のところは分かりませんが、どうでしょうか。

 

しかし、この本がその後の私の歴史観の一つの基礎となったとも言えるものです。

より広い視点から見るということが大切と感じさせるものでした。