爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「名作うしろ読み」斎藤美奈子著

名作と呼ばれる本の、あらすじをまとめたり、書き出しだけを並べたりといった書物は時々見かけることがあります。

しかし、それが「エンディング」ばかりを集めたものというのは、珍しそうです。

 

あとがきに著者も書いているように、名作の「顔」(書き出し)ばかりもてはやされ、「お尻」が迫害されてきたと言えそうです。

それは、「ラストがわかったら読む楽しみが減る」といった理由だったのでしょうが、もはや名作と言われた本であればもうあらすじすら大体分かっているでしょうから、「お尻」だけ楽しんでも良いんじゃないというのが本書コンセプトでした。

 

確かに、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とか、「木曽路はすべて山の中である」といった「書き出し」は、たとえその本を読んだことが無い人でも皆知っているでしょうが、「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」とか、「一つの音の後には、また他の音が続いた」なんて、全部読んだ人でなきゃ知らないでしょう。

 

しかし、こうして名作のエンディングを見ていると、その本の「書名」「著者」「書き出し」は知っていても、「エンディング」ばかりか「あらすじ」すらほとんど知らないということが再確認されました。

まあ、それで困ることもないけれど。

 

谷崎潤一郎の「細雪」、まあ演劇にもなっているので、だいたい4人姉妹の話ということは分かっていても、それ以上の知識はなし。

最後が「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」であるとは、夢にも思わなかった。

 

植物分類学の日本の父とも言われる牧野富太郎には、自叙伝というものがあるのですが、その内容はかなり傑作のようです。

裕福な酒屋の息子として産まれてもその財産を研究に使い果たし、そのくせ子供を13人も作るという、破天荒な人生だったようですが、その自叙伝の最後は「何よりも尊き宝持つ身には、富も誉れも願わざりけり」だったそうです。

 

太宰治の「富嶽百景」は、「富士には月見草がよく似合う」という一文のみが有名となり、人の口にも上るもののほかはまったく知られていないようです。

御坂峠からの眺望は「まるで風呂屋のペンキ画だ。芝居の書き割りだ。どうにも注文通りの景色で私は恥ずかしくてならなかった」と悪口ばかり。

そして最後の文章は「安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると甲府の富士は山々のうしろから三分の一ほど顔を出している。酸漿に似ていた。」とこれも賛美しているとは言えないような筆致だったようです。

 

中上健次さんが書いた「紀州 木の国・根の国物語」という本は知りませんでしたが、独自の取材を重ねて書かれたルポだったそうです。

そこで比較し語られているのが、司馬遼太郎街道をゆく」シリーズで、これを指して「行政当局が敷いてくれた取材ルートに乗り、その土地のサワリの部分を文人気質でサワってみるだけの旅」だと批判しています。

最近その一冊を読んだばかりだったので、納得。

 

なかなか面白い本の読み方をされる方のようで、「読んでいて楽しい」ものでした。

 

名作うしろ読み

名作うしろ読み