スコットランドと言えば、キルトやタータンチェック、イングランドと今は一つになっているとはいえ、古くからの伝統が残っているところというイメージですが、どうもそうではないようです。
あの男性がはくスカートのようなキルト、あれも中世以前に遡るようなものではなく、せいぜい18世紀に生まれ、その後の民族衣装ブームという雰囲気の中で上中流の階級の中に広まり、あたかも古来からの伝統のように見られるようになったもののようです。
氏族ごとに色や柄が違うと称するタータンはさらに生まれが新しく、そもそも氏族制度自体が1746年のジャコバイトの反乱で事実上解体されていたのですが、その当時でも氏族ごとのタータン柄の違いというものはありませんでした。
しかし、1822年のジョージ4世のエディンバラ行幸の際に、迎えた貴族や郷士たちが「我が家のタータン」と称する衣装を着て行事に参加したのが最初だったそうです。
スコットランドも元々の住民がケルト系だったかどうかは明白ではないようです。
しかし、アイルランドから「スコット人」と称する人々がハイランドに移り住んだのが西暦500年頃のことだそうです。
アイルランド人はケルト系ということですから、スコット人もケルトとしてよいのかも。
しかし、アイルランド人とスコットランド人はその国民性が大きく異なります。
アイルランド人はかなりいい加減なところもあり、馬車の時代のままのような交通標識もあるのですが、スコットランドでは非常に合理的、その経済観は「ケチ」、技術も高く教育も優れているというものです。
明治初期に日本にお雇い外国人としてやって来た教師や技術者は実は多くがスコットランド出身者だったそうです。
また、明治初期から日本に入ってきた英国由来の書物にもスコットランド人の著書が多かったとか。
スコットランドの人は多くの起源を持つ人たちの混合体であるということは間違いのないようで、上記のスコット人が来る以前から居たピクト人、その後ブリトン人、ヴァイキング、アングロサクソン、ノルマンと様々な民族が繰り返し入ってきました。
ハイランドとロウランドではその人種差が大きいようで、両者の対立ということもあったようです。
しかし、ハイランド人が文化的には遅れているとは言われても、戦士として非常に強力であったという評価は広く行き渡っており、近世までヨーロッパで屈指の勇者と言われていました。
スコットランドには古くはカトリックが広まっていたものの、16世紀に持ち込まれたカルヴィニズムが広がりそれによる宗教改革が大きな破壊を呼びました。
イングランドでは、宗教改革といってもヘンリ8世による官製宗教改革とでも言うべきもので、カトリックとは別れたもののその中身は大して変化もないものだったのですが、スコットランドの宗教改革では古くからの教会や修道院なども徹底的に破壊するというものだったのです。
国王の血筋の問題から、スコットランドとイングランドが同君連合から、合邦ということになり、議会も合同ということになりました。
それでも両国は別という意識が強く、法律も宗教も別のままでした。
しかし、徐々にイングランドの影響は強くなり、スコットランドを変質させていくことになります。
それに対して、スコットランドの伝統と歴史を強調する動きが強く出てくるようになります。
上記のキルトやタータンをめぐる流行もそうですが、18世紀にジェイムズ・マクファースンという人物が、古代から伝わった叙事詩を翻訳したと称して出版した「オシアン事件」というものが起こります。
古代のスコットランドは文化も輝いていたと思わせるものだったのですが、始めからその原作は存在せず、マクファーソンが捏造したのではないかという疑いを持つ人が多かったのです。
しかし、その詩の出来は素晴らしく、また古代へのあこがれもあり、かえってフランスやイングランドで広く受け入れられました。
ナポレオンも愛読していたそうですし、その登場人物にちなんで「オスカル」とか「オスカー」といった名を子供につけるのも流行しました。
スコットランドは小国ですが、大学は昔から数多く設立され、イングランドにオクスフォードとケンブリッジの二校しかなかった15世紀に、セント・アンドルーズ、グラスゴウ、アバディーンの三校があり、さらにその後も設立が続くというほど教育熱心な国柄でした。
特に、実学実業の分野で優れた人々を数多く輩出しており、医師や技術者、法律家などが多いそうです。
現代でもまだイギリスからの分離独立という話も出ているようです。
日本から見ればサッカーもラグビーも別のチームを出しているといった程度の認識しか持てませんが、その特色は強いものなのでしょう。