爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

もはや死語か、「保守と革新」

また行方を見失った野党が自民党に取り込まれて雲散霧消しようとしています。

どうせほとんど立場も考えも自民党とほぼ一緒の連中でしょうから、まだ受け入れてもらえるうちに入ってしまった方が良いのでしょう。

他にも「なんでも反対野党」では無いと言いたいだけのように、「是々非々で」政府の法案に賛成してみたりするところもありますが、その行く末も同じようなものでしょう。

「是」などひとかけらもないような自民党政権には野党であれば「全部反対」になるのが当然でしょう。

 

今では野党のほとんどでも「保守」の考え方と称する人々が多数を占めるようになっています。

しかし、自民党と変わらない考え方をするのが果たして「保守」なのか。

そもそも「保守」とは一体何なのでしょう。

「何も変えようとしない」のが保守なんでしょうか。

 

一昔前には「保守」は「革新」と組みで使われていたようです。

革新自治体と言われる動きが1960年代以降の高度成長期にその矛盾が噴出してきた頃に主に都市部で強くなりました。

しかしそれも多くは保守政治家に取り返されてしまったようです。

 

当時は自民党が保守、社会党共産党が革新と言われていました。

それでは「保守」とは何なのか。

一応考えられるのは、現在の政治経済体制を守ろうとすること、伝統的な道徳を守ること、国際的にも現行体制を守ることといったことでしょうか。

 

しかし、戦後すぐから続く自民党政権はとても「伝統を保守してきた」などとは言えないものでした。

 

敗戦後の経済体制は財閥系の流れをくむ大企業群が主要な位置を占めていたとはいえ、国民の多くは農家として農業共同体に属する人々と、家内工業的な町工場や小規模小売業の経営者や労働者として生活していました。

それが日本の伝統的経済体制だとすれば、それを徹底的に破壊してきたのが自民党政権です。

そうして職を失う人々を大企業の労働者や下請けとして取り込みました。

そのどこが「保守」なのか。

まったく支離滅裂なこじつけなのですが、ここでは百歩譲って自民党などに集結する人々の考えを整理してみましょう。

 

まず、資本主義的経済体制を守る。

とは言っても資本主義体制にも色々あるのでしょうが、現行の大企業支配体制を守るということです。

象徴天皇制は現行通り、いやより強化して存続させる。

家族や個人といったものについての社会的規範は少し前(昭和期)の通例を守る。

つまり、家という幻想単位の死守、個人の自由の制限などを守っていくことで、夫婦別姓などは反対ということです。

国際的には戦後に確立されたアメリカ一国覇権体制に完全に従う。

 

まあ保守といっても非常に広い範囲でしょうから、違う考え方の人も多いでしょうが、その中の誰もがまとまると言えばこういった程度のところでしょう。

 

それでは「革新」とは何だったのか。

共産党マルクス主義の体制を目指していたと思いますが、今は止めたのでしょう。

社会党はその実現は否定していましたがその中途半端な姿勢のためか党自体が消えてしまいました。

しかし、「マルクス主義の体制」といってもその産業の運営が企業によるか国家(共産党)によるかの違いであるだけで、その目指すものは現代社会の通例と変わりなく、エネルギー依存の科学技術を用いた生産消費体制であることには変わりません。

その効率の低さによって共産党指導の共産主義体制は企業任せ(というか、やりたい放題)の資本主義体制に敗れてしまいました。

それが明らかになりつつあった頃から、日本では共産党社会党共産党による共産主義体制確立は主張せず、ただ「公正な社会運営」のみを主張していたように見えます。

それが実は「革新」であったと言えるのではないでしょうか。

 

そこには、大企業の暴走や横暴は止めようとする姿勢がありましたが、大企業の存在自体には反対せず、制御さえすればその活動は認めるものでした。

つまり、せいぜい「正しい資本主義」を求めるだけのものであったということでしょう。

そんなものが存在しうるかどうかも危ういのですが。

 

そんな「革新」が力を失い野党の間でもほとんど勢力を無くしたのも、グローバル経済体制となり国際競争の激化で中途半端な経営では勝てないということになったからでしょう。

そのため「公正」を求めて企業経営に制限をかけようという試みは否定され、それ自体がグローバル体制への消極姿勢であるかのように見なされるようになりました。

 

やはり、現在の資本主義体制、それは実は「エネルギー依存科学技術に支えられた資本主義」なのですが、それを認める限りは抜け出せない袋小路になっているのでしょう。

そして、「エネルギー依存」したくてももはや「エネルギー供給」自体が不安定になる近未来では資本主義体制すらも不安定化していきます。

 

これまでも何度も書いていますが「脱エネルギー」を目指す政治的運動が絶対に必要なこととなるということです。

それは現在の国民の仕事のほとんどを組み替えなければならないという苦しいことを強いられる厳しいものですが、エネルギー依存文明を続けてエネルギー不足で大混乱と破局を迎える未来と比べればはるかに良いこととなるはずです。