著者の御三方は東日本大震災時の福島原発事故に関する政府事故調査委員会のメンバーとして、調査し報告した方々です。
特に畑村さんはその委員長として取りまとめた方です。
「おわりに」に書かれているように、政府事故調の最終報告は2012年7月23日に公表されました。
活動期間は11年6月から12年6月までのほぼ1年。その後最終報告をまとめたのですが、非常に大部となって読みづらく、また表現もこなれておらず、客観的に全部を読み終えるのが難しいものであるとは、委員本人が自覚していたそうです。
そのため、著者たちはこの報告書の核心部分を読みやすく出版することが必要であると感じ、本書を出版したということです。
また、報告書は政府の公文書であることから、断定や評価を差し控えた部分もあり、その点も不十分であると感じました。そこも表現を変えた部分があり、事故調報告書のダイジェストではないということです。
原発の事故の状況(その時点で分かっていた範囲で)
政府と地方自治体が失敗した点
東京電力の失敗、その原因となった安全文化
被害拡大した要因
福島原発の教訓をどう生かすか
といった章立てで論じられています。
詳述はしませんが、記憶しておくべき事項をいくつか記しておきます。
地震そのものの損傷は、「閉じ込め機能を損なうような損傷はない」という結論になったようです。
ただし、ある程度以下の小さな亀裂の発生の可能性は否定できないとしています。
電源喪失の状況について「地震で常用外部電源を失い、津波で非常用発電機が水没し、すべての交流電源を喪失した」と言われていますが、それは誤りで、「配電盤のすべてが水没し故障したこと」が一番大きな問題でした。
もしも配電盤が無事だったら生き残った5,6号機から最小限の電源が融通でき、事故は軽微なもので済んだかもしれません。
東京電力は原子力安全委員会の主導により1992年より「アクシデントマネジメント」の推進を実施しました。
しかし、その実施は10年もの歳月を要するという鈍いもので、しかも過酷事故の原因を内因事象に限定していたために不十分なもので、自然災害などの外的事象に対する備えは考慮されていませんでした。
この形だけのアクシデントマネジメント推進で、整備は終了したと考えてしまいました。
2007年に新潟中越沖地震で柏崎刈羽原発で損傷が起きてもその教訓を根本的に考えるということはしませんでした。
安全は確立されているという安全神話が過酷事故のリスクを過小評価させることになりました。
1993年に起きた北海道南西沖地震で、奥尻島に大きな津波被害が起き、それで日本の津波対策見直しも変わってきたのですが、電力業界も対策見直しを始めました。
しかし、その場で行われたのは、福島第1原発では従来の津波高さ3.1mと想定して対応したものを、5.7mと高くしたのみでした。
それ以上の津波が来る可能性を指摘する意見もあったのですが、結局は400年前までに起きた津波の高さに対応すれば良いということで済ませてしまいました。
本当は、津波評価というものは津波高さを算定するだけのものであり、どういう対策をするかということとは違うはずなのですが、高さを決めるだけで終わってしまし、防波堤のかさ上げだけに矮小化されてしまいました。
除染ということを、化学物質の中和のように思っている人もいるようですが、放射性物質の放射能をなくすことはできません。
国や自治体は放射性物質が付着した土や植物などを全て集め、それをどこかに保管しようとしていますが、保管場所の選定も難しくうまくいかないでしょう。
その場で、火山灰を集めた「灰塚」のようなものを作ってまとめておくことが一番の対策のようです。
問題となる放射性物質はほぼセシウム137だけと言えるのですが、これは土の粒子と固く結びついてあまり移動しません。したがって、こういった土を集めて置いておいてももはや移動することもありません。
かといってあまり大量にまとめると近づくこともできないので、その場で少し高い放射線を出すものをまとめておいて、そこには近づかないという対処が現実的ということです。
最後の章では畑村さんが「失敗学」の専門家でもあるということから、この事故についての所感が述べられています。
1.あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
2.見たくないものは見えない。見たいものが見える。
3.可能な限りの想定と十分な準備をする。
4.形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが目的は共有されない。
5.全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
6.危機の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
7.自分の目で見て自分の頭で考え、判断行動することが重要であることを認識し、そのような能力を涵養することが重要である。
意味深いものですが、実施するのは困難なことばかりでしょう。