爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

歴史に「もしも」

「歴史に”もしも”は禁物」という言葉は聞いたことがありますが、それが誰がどのような状況で言ったものかは知りませんでした。ただし、私自身これには大いに異論を持っており、もしも歴史学者が話しているのならばその立場上仕方のない発言かもしれませんが、それ以外ではまったく間違ったものだと思います。
同様のことをブログで書いていらっしゃる方もいらしていて、http://ameblo.jp/daocheng/entry-11890054421.html やはり主張は同じようなものかもしれません。そこにも「もしもはない」という言葉がどこから来たかと言う決定的な論証はないようですが、「もしも」を考えるべきということのようです。

「歴史に学ぶ」という言葉があります。「温故知新」も同じようなことだと思いますが、「歴史に学ぶ」場合は実際の歴史を見ながらあらゆる可能性を考えてみるという方法論も必要になります。これこそ「歴史にもしもを考える」ことになります。
それは、あまりにも歴史の中で「判断の失敗」が多いからかも知れません。「もしもあそこでミスらなければ」というのはどうしても考えたくなることです。もちろんそれ以外にも様々な可能性を考えていくことで、それ以降の展開も想像できるわけですが、そこで考えること自体が歴史、そして人間社会そのものの洞察力の訓練にもなると思います。

最近考えている「歴史のもしも」は、「もしも江戸幕府鎖国をしなかったら」です。ヨーロッパ諸国の通商、キリスト教布教を足がかりにした進出を怖れるあまりに鎖国に向かったのですが、そのために産業革命の情報に触れるのが遅れ明治維新での混乱につながりました。鎖国をしなかったら江戸時代初期に激しい混乱が起き植民地化されたという可能性もありますが、うまく乗り切れば産業革命の後をすぐに追いかけられたかもしれません。それが良いことかどうかも判りませんが、まったく違った世界になったでしょう。

もう一つの「もしも」、「もしも津波学者が東北地方の津波がこれまでの試算よりもはるかに高くなる可能性があるという研究成果を発表した時に、政府や電力会社が真摯に取り組んでいれば」ですが、もしも福島第1原発が無事だったら他の原発もそのまま続いていたでしょうから、それはどっちが良いのか悪いのか判断できません。