爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「コシヒカリ物語 日本一うまい米の誕生」酒井義昭著

コシヒカリと言えば味の良い米ということで高値で取引され、特に新潟の魚沼産のものは非常においしいと言われています。
栽培されている地方も多く、全国至る所のコシヒカリが出回っている状況で、さらに新しい品種として出てくるものもコシヒカリの系統のものがほとんどという状態になっています。
しかし、このようにコシヒカリ全盛となったというのもそれほど古い時代ではありません。今ではササニシキという品種は聞くことも少なくなりましたが、少し前まではかえってササニシキの方が多かったという時代もあったようです。
このようなコシヒカリがどのように発展してきたのか、ほとんど知らないという人が大部分だと思います。これについて、新潟出身の新聞記者であった著者が詳しく書かれています。いろいろな人間模様も含まれていますので、米に品種改良に携わるような研究者よりは物語として面白く書かれているものと思います。
読後感として端的に言えば、「よく生き残ったものだ」ということです。偶然残ったというよりは、県と国の研究機関同士の意地の張り合いで残ってしまったと言った方が正確なようです。

コシヒカリの誕生というのは、太平洋戦争も末期となった1944年でした。新潟県農事試験場の高橋浩之主任技師が交配作業の結果作り出したものです。その当時戦況の悪化で農事試験場からも徴兵される者が多かったのですが、高橋さんは怪我のため兵役につかなかったということで、試験場に残っていました。しかしほかの職員もいなくなったためにほとんど一人で作業をしたそうです。
交配は「農林22号」を母とし、「農林1号」を父として行いました。これは晩生種と早生種の交配であり、非常に難しいものだったそうです。(開花時期が違うため)その狙いと言うのも当然ながら食味の改善などというものはまったく考えていませんでした。農林1号というのはいもち病に弱く、倒伏しやすいという欠点があったので、それを改善しようという目的だったようです。
しかも一度交配してできたモミを何度も栽培して性質を見ていくというのが通常の育種作業なのですが、敗戦の混乱で翌年は実施することができないという異例の事態になってしまいました。
さらにその翌年、高橋は人事異動で試験場を去ることになり後任の仮谷、池と言う二人が続行することになったのですが、高橋が交配だけ済ませた候補株を確認のための栽培をしてもあまり高評価のものはなかったようです。
ちょうどそのころ、福井に北陸南部向けの品種育成のための実験所が設けられることになり、開発中の候補株を分けることになったのですが、「捨てるものがあったら回してやれ」というむちゃくちゃな指示で渡されたものにコシヒカリが含まれていました。
福井実験所では入ったばかりの石墨慶一郎という技師が担当することになりましたが、石墨は米は全く未経験で、訳のわからないまま始めたそうです。
そのまま試験は続けられ、コシヒカリも捨てられずに残されたのですが、その理由がどうもはっきりしないようです。当時は食味が良いかどうかなどはまったく考慮されず、とにかく増産できるというのを求められていました。コシヒカリは生産量は少ない性質ですので、きちんと検討していれば真っ先に捨てられていたはずです。石墨が素人同然だったというのも理由だったのかもしれません。

そのように何とか残ったのですが、それを品種登録するかどうかというところで大揉めになりました。この辺には各部署の意地の問題がかなり関わっていたようです。
機構改革で事業場の名前もころころ変わっていき分かりにくいのですが、コシヒカリを作り出した北陸農試、育成した福井実験地、そして新潟県の農試などが関わり、あまり仲の良くないもの同士の対抗意識もあり、普通であれば残さないようなものが生き続けました。

しかし、そのような中でなんとか登録されたコシヒカリ栽培が難しく収量も少ないという欠点もあるものの、味が非常に良いということが分かってきたようです。特にもともと環境の厳しかった魚沼ではそれが逆にコシヒカリに向いているという幸運もあり広がっていきました。
さらにちょうど時代はコメ余りと言う状況になってきて、その中で収量が多くても味が悪い品種は避けられ、多少収量に難があってもOKという雰囲気ができてきたということも大きかったようです。
自主流通米という制度ができたのですが、それも最初からコシヒカリが圧倒したわけではなく、ササニシキ優勢が続きました。しかしササニシキが関東にしか供給しにくかったという点を突き、元来はあまり関西向きではないと考えられたコシヒカリの食味もカバーできるだけの状況になったようです。
1995年頃になると自主流通米でも価格が上昇せずかえって低下する品種も出る中で、コシヒカリだけは価格上昇が続き、その結果全国至る所で栽培を広げてしまいました。

さらに、コシヒカリを元にした品種改良というのも全国で始められ、現在の銘柄米はコシヒカリ以外でもほとんどがその系統と言うことになってしまいました。
コシヒカリは茎が長くなり倒伏しやすく、稲刈りの機械刈りに向かないと言われていたものでした。しかし、現在では機械の方がコシヒカリ向きの性能を備えるようになり、かえって機械栽培向きとなってしまいました。苗づくりから田植え、刈り取りまですべての稲作りの工程がコシヒカリに適したようにつくりかえられてしまったと言えるようです。
しかし、このように全国のコメ栽培品種が同系統となってしまうということは、非常に危険な面も持っており、特に倒伏しやすく、いもち病など病害にも弱い方と言うコシヒカリ系統だけになっていくと、全国的な気象災害や病害が起こった場合は全滅という事態にもなる危険性が出てくるということでもあるということです。
また田植えや稲刈りのタイミングがすべて同じになってしまうと、それに使う装置も一斉に使わざるを得ないために共有できないということになり、無駄が増えることにもつながります。これも欠点になるのでしょう。
やはり早生、中生、晩生のバランスの取れた品種が揃うように、ほかの系統の優れた品種の創出も求められるということです。

なお、米の食味と言う点では勘違いしていたことがありました。米はタンパク質の含有量が多い方なのですが、その範囲ではできるだけタンパク質が少ない方が食味が良いという評価になるそうです。酒造好適米ではタンパク質は限りなく低い方が良好なので、食米の場合はある程度高い方が良いのかと思っていましたが、それにも限度があるということです。とはいえ、良好と言われている範囲が約7%、それが9%を越えると良くないということなので、微妙な問題です。とにかく米の食味というものはわずかなバランスの差でがらっと崩れるようなものかと思いますので、その中で良好となるのも大変なことのようです。

現在は圧倒的な王座にあるとも言えるコシヒカリですが、その出自から現在に至るまで順調に伸びてきたとは到底言えないという歴史だということは初めて知りました。それとともに、終戦前後のとにかく強くてたくさん取れる米と言うものを求めていた品種改良から、あっという間に食味だけが求められる現在まで変更されるのにはほんのわずかの時間だったということも驚きでした。今後も決してこのまま続くということではなさそうです。