爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本語の歴史2 文字とのめぐりあい」編集委員 亀井孝、大藤時彦 山田俊雄

第1巻の読後感想で、じっくりと読まないと分からないと書きましたが、しょうこりも無く第2巻も読んでしまいました。こちらは少しは分かりかけてきたかもしれません。

第2巻は文字についてです。中国から伝わった漢字を使いさらに仮名を作り出して日本語の表記をして行ったと言う大雑把な理解をしていましたが、なかなか一筋縄ではいかないものだったようです。

第1巻でも書いたようにこのシリーズは40年以上前に書かれたものを2007年に復刻したもので、その間の研究進展で新たな資料が出たりした部分もありますが、今になっても光を失わない先鋭的な議論が展開されています。
たとえば、漢字は「表意文字」といわれますが、これは正しくは「表語文字」と言うべきものであり、1文字で一つの単語ということです。これも現在でも成り立つものです。

世界には何通りかの文字の系統がありますが、それがただ一つの起源から生まれたという説もあるようですが、やはり漢字は別物でしょう。そして東アジアではその周辺の国々はすべて漢字の文化にさらされながら自国の言葉を文字にするという活動をしてきました。
それらの民族の言葉はシナ(この本では編者筆頭の亀井孝の流儀で中国の個々の王朝ではなく全体を指す場合はカタカナでシナと書いています)の言葉とは基本から異なるものが多く、それは日本語も同様です。したがって、漢字そのままで自国語を表すということはできず、どこでも独自の文字を作り出すということになりました。
契丹女真西夏などは漢字から文字を作り出し、朝鮮では漢字とは別個のものを作り出してしまいました。また、モンゴルでは漢字から決別して中央アジア由来のアルファベット系統の文字を採用したということです。
ベトナムも朝鮮と同様に独自の文字を作りましたが、その後ローマ字化してしまいました。しかしどちらもその言葉の中にシナ語由来のものが多数あるために現在でも表記上のトラブルを抱えているようです。

朝鮮は日本より前に漢字を受け入れており、おそらくそれだけでなく人も多く受け入れていたのでしょうが、日本より以上に漢字をそのままの形で使うということになってしまい、今日まで「訓読み」というものを発達させずに来てしまいました。すなわち、数多くの漢語由来の言葉はすべて一通りの音読み(原語読み)しかせず、漢字の意味に由来する読み方をするということはないそうです。

さて、日本に伝わった漢字は日本人により独自の使い方をされました。中国人が夢にも思わなかった縦横無尽の使い方かもしれません。仮名というものも契丹文字や朝鮮ハングルなどとは異なりかなり自然発生的に生まれてきました。訓読みも多くの種類ができてしまい、また漢字自体の読み方も繰り返し中国との交渉の中から違ったものを輸入して、呉音とか唐音とかいう別系統のものを平気で併用しています。

漢字が伝わったというのは何度もあるようですが、倭国の時代にはすでに中国から人が訪れているので文字も伝わっているのは間違いがありません。それ以前に大陸や半島から帰化人(渡来人)として来た人々の中にも文字を使える人がいたでしょうから、彼らを通して文字に触れるようになっていたでしょう。
しかし、その頃は漢字は中国語を表記するということしかできなかったでしょう。それをなんとか日本語を書き表わせるように苦心してきたということです。
大和朝廷のころからたびたび渡来した人々は文字を使いこなすということで専門の職業にも就いたようです。しかし、それも公式の教育機関などがあるわけでもなかったので、家庭内の教育のみしかできず、何代かたつともはやまともな文字使いはできなくなってしまったそうです。高句麗から外交のために使者がきて文書を渡しても、古来からの史(ふひと)の人々が読むことができず、ようやく新たに渡来した人のみが読むことが出来たということもあったようです。
このような渡来人は何派にも分かれてきました。その最後の大きなものは百済滅亡後に逃れてきた人々ということです。

その後は正確なシナ語習得という目的も兼ねて遣隋使、遣唐使が派遣されましたが、この人選も実際は渡来人の子孫が多く選ばれたようです。

そして、そのような漢字というものを使って日本語を書き表すという必要性も増してきました。最初は人や地名など固有名詞の表記から始まったようです。一音一音をそれに対応する読みの漢字で表すという、万葉仮名の考え方の先駆というべきものはそのかなり以前から始まっており、刀などの銘文にも残っています。
万葉集が万葉仮名というものを多く使い書かれているといわれますが、実は訓読みも駆使されており、31音節の歌をわずか10文字程度の漢字で表すということもされていて、現在となっては正確な読み方が分からなくなっているものもあるようです。もちろん1音節を1文字に対応させるものもあるのですが、それが並立しています。

なお、平仮名、片仮名というときの「仮名」とは漢字を真名(真の文字)と呼ぶのに対して「仮の文字」という意味ですが、万葉仮名というときの「仮名」は漢字そのままですので当然「仮の文字」ではありません。これは「借りた文字」という意味だそうです。

万葉仮名から分かる当時の発音という問題もあり、平安時代以降なくなってしまった読み方の差を明確に分けているものもあるとか。
また、平仮名表記の場合、清濁音の使い分けが無いというのもその本当の意味がすでに分からなくなってしまっていますが、そこには明確な理由があるとか。
いろいろと深い問題が隠されていそうです。