歴史研究家で江戸東京博物館学芸員という著者ですが、「沼尻合戦」という戦争については調査を始めるまではほとんど知識がなかったそうです。まして、一般にはほとんど知られていることではないでしょう。しかし、調べ始めてみると数多くの資料が残っており、また戦国時代末期の関東の情勢を決定づけたという意味でも大きな影響をもたらしたものだということが分かってきたようです。
織田信長が武田氏を滅ぼし、甲斐信濃も支配下に入れた直後に本能寺の変で死亡すると織田の領国となった各国も大きな波を受けます。関東では信濃や越後から侵攻を受ける上野で戦乱が起きますが、その頃は北条氏の支配も下野、常陸にはまだ及ばずその地域には宇都宮氏や佐竹氏が残っていました。
北条氏と宇都宮佐竹の決戦が沼尻合戦だということで、現在の館林・藤岡の近郊で下野・上野の境のあたりです。長期の闘いとなり結局は和議となったようですが、その後の立ち回りの上手さで北条氏が有利になりました。
なお、「北条の夢」というのは関東一円を治め関東国主となるということだったようです。
その後、中央では秀吉と徳川・織田が争う小牧長久手の闘いのあと秀吉と徳川の折衝になります。北条や上杉、伊達という東国の大名もその戦略に組み込まれていきます。北条氏は徳川と結び秀吉側の上杉を警戒するということになります。
しかし、徳川が結局完全に秀吉と同盟してしまうということになると北条氏の立場は微妙になってしまいます。
形の上では北条も秀吉に従うということになりますが、上州では昔どおりに関東征服という野心を持つように見られたために秀吉の怒りを買ってしまい、また北条氏政への上洛要請も無視したままということが秀吉から完全に敵対と見られ、結局小田原攻めということになってしまい、落城したことが実質的に戦国の終焉ということになりました。
それにしても小田原攻め直前に北条の使者として北条氏規が上洛したおりの秀吉謁見に同席したのが、島津・毛利・大友などの西国の大名歴々です。ほぼ全国統一という面々を見ても北条は完全屈服とは思わなかったのでしょうか。