爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「その一言が余計です。 日本語の”正しさ”を問う」山田敏弘著

著者の山田さんはいろいろな外国語を勉強した後に日本語の面白さに戻ったと言うことで、現在は岐阜大学教授です。本書の紹介欄には「シニア教授」とありますが、現在のHPには教育学部教授でシニア教授併任とありますが、どういった内容かはよく分かりません。

まあそれは良いとして、本書あとがきにもあるように、「この日本語は誤っている」とか「こういう言い方が正しい」といったことを書いた類書は現在もたくさん出ており、それとは違うものを書きたかったということです。しかし著者が主張したいことは「正しさ」というのは相対的なものであり、時代とともに移り変わっていくのでどれが正しいとも言えないということのようです。
これは著者の現在の仕事にも関係がありますが、教育学部の学生に国語教育の仕方を教えるということについても、「どれが正しいかを教え込む」のではなくきちんと自分の頭で考えさせたいということですが、それはなかなか難しいことのようです。

人の話す言葉が気にかかるというのは誰でもあることですが、特に自分の言葉に自信のある人ほどそう感じるかもしれません。会話の中でついつい入れてしまう「埋め草的」なことばはタイミングを合わせる意味もあるのでしょうが、「これからも、まあ、がんばってください」というように「まあ」が入ると非常に不愉快に思うというのも分かります。こういった点はきちんと自覚させ、他の言葉に変えさせるということは必要なんでしょう。

「全然」という副詞が否定形の文章以外でも使われることについては相当批判的に考える人も居ます。しかし、明治時代には肯定形で使われる場合がかなり多かったようです。ただし、言葉の意味がまったく違ってしまったということも忘れてはならず、現代では否定形で使わなければならないというのも理由があることだということです。
「日本語では肯定か否定かが文末に来るまでは分からない」ということがよく(批判的に)言われることがありますが、これも実は不正確であり、文中のところどころに使われる副詞などであらかじめ肯定か否定かを匂わせながら、最後にはっきりとさせるという言い方がよく使われるということです。「全然」という副詞もそういった機会に否定の雰囲気を持たせるために使われることがあるので、それを肯定で使われるのはとんでもないことだという受け取り方があるのも当然なのかも知れません。

二重否定というのも日本語の、しばしば欠点とも言われる特質なのですが、英語などでは二重に否定されていても単なる一つの否定と見なされるということもあるようで、結局は日本語とは否定の仕方が異なるということだということです。

敬語は相当難しいのは確かであり、店員の応対が変だという話はしょっちゅう耳にしますが、敬語の中には尊敬語と謙譲語、丁寧語というのがあるというのはなんとなく覚えがありますが、実は謙譲語の中にも「丁重語」と分類すべきものがあるようです。これを使うと、簡単に説明することが難しいと考えられる「存ずる」と「存じ上げる」が明確に分離できるということです。すなわち、「存ずる」は動作自体をへりくだって話す丁重語であり、「存じ上げる」はその目的に対して謙譲するということということです。
日本語では尊敬すべき対象を主語にして話すということ自体を避けるという傾向が強かったようです。それがさらに複雑に見せている理由だそうです。「天皇陛下におかれましては、お声をおかけになりました」というのは天皇を主語にするのを避けて最高の敬意を示すということだということです。
これは身近でも「お茶が入りましたよ」にもつながることだそうです。

「世界の中心はなんなのか」それは「自分」だそうです。誰でも自分が正しいと考えているそうですが、言語の世界では時間的にも地理的にも正しいというものはたくさん存在していたので、どれか一つが正しいと言える訳ではないようです。単に自分が昔から慣れている言語を正しいと感じ、それ以外は誤りとしてしまうだけではいけないというのが著者の立場でした。