爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「小村寿太郎 近代日本外交の体現者」片山慶隆著

片山さんは法学博士で関西外国語大学講師ということですが、外交史の研究ということで小村寿太郎に興味を持ち研究されていたそうです。小村に関しては名前だけは有名な面もあるのですが、生涯トータル通してのまとまった解説が無かったということでした。

小村寿太郎は一番名前が知られているのは(まあ私が知っていたのは)日露戦争終結時の交渉に全権大使としてあたり、賠償金が取れなかったということで日比谷事件なども起こったというところですが、こうやって明治期の外交を追っていくと非常に小村の力が強く影響していたということがわかります。

実は私が以前日南市に行った際(仕事のついででしたが)時間があったので飫肥を訪れたことがあり、小村記念館も寄ったことがありました。短時間でしたので正確に理解したとは言えませんが、身近に感じていたのも確かです。
それでもこうやって生涯をたどってみると違う感覚も感じます。
意外に覚えたのは非常に身体の小さい人だったということです。身長は150cmに満たず、病弱でもあったようです。また、外交の成果は大きかったものの人付き合いが極めて嫌いで、大使公使として赴任していてもほとんど社交の場には出ずに本ばかり読んでいたとか。そのために周囲や相手国関係者からも嫌われることも多かったそうです。一方、外相としては長期の任期を勤めその成果も日英同盟や条約改正、韓国併合満州進出にも力を発揮しました。
そのように方向性としては日本の帝国主義の実現に向けて大きな成果を上げたといえるようです。

しかし、少年期から長くは不遇の時代だったそうで、アメリカに留学し成績は優秀で帰国後は司法省に勤務したものの、法律家としてはさほど有能ではなく力も発揮できませんでした。しかし外務省に移籍し翻訳ばかりをやっている時に陸奥宗光に見出され中国に赴任しますが、そこでは外交をするというのではなく地道な勉強をするという以降の生涯そのもののやり方で段々と力を発揮して行ったようです。
日清戦争からそのあとの時代にかけて、朝鮮や満州をめぐりイギリス、ロシア、アメリカなどと外交上でもしのぎを削るような時代を迎え、陸奥亡き後の山県有朋桂太郎らから高評価を受けたのが出世の糸口ともなりました。

日露戦争の時代の活躍というのは相当大きかったようです。イギリス・ロシア・アメリカ・ドイツ・フランスなど列強の中でよく日本の立場を主張したというべきでしょうか。しかし、様々な面で帝国主義の方向性を強め、その後の第二次世界大戦につながる道を歩ませたということも言えるのかも知れません。

しかし、かねてからの病弱な体質は改善することなく数回の大病も経験し結局56歳の若さで亡くなりました。その後の外交はやはり少々レベルダウンしたのかも知れません。