爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「悪の引用句辞典」鹿島茂著

フランス文学者で明治大学教授という鹿島さんが、ヨーロッパの文学で重要な引用句というものを使って、それぞれの引用文に対して色々と考えをつづったものです。

欧米では議論の際にも有名な引用句を適宜引いて述べるというのがアピールする技法となっており、引用句辞典というのが欠かせないものになっています。主張する内容よりも引用の技術が重要視されるという本末転倒した状態とも言えるようで、フランスの文系のバカロレア(大学入学資格試験)の課題論文ではいかに引用を上手くするかということにかかっており、毎年発表される高得点論文の例ではどこにオリジナリティーがあるか分からないが引用だけは上手くやっているというものが多いそうです。
そのような引用重視の文化はどこから来たかというと、キリスト教の聖書の引用からというのが著者の見解で、聖書だけが重要という教義の下では当然ながら引用重視とならざるを得ず、昔の神学論文では聖書の引用だけで構成されていたものだったようです。

それはさておき、著者が数多くの有名引用文に寄せて持論を述べた部分も少しは引用?しておきましょう。

中江兆民の変革に関する文章からは、「彼らはただ変革することだけが好きなのだ。破壊することが好きだ。保守を一番好まない」にかけて、小泉変革を批評しています。変えようというのが変革者なら現在の憲法改正論では改正論者が変革者(=破壊者)で護憲論者が保守でしょうか。

タレーランの「彼らは何一つ学ばず、何一つ忘れなかった」については、民主党政権交代とそれに続く自民党の政権復帰について、また自民党が失策をすれば「歴史的勝利」で別の政党(もう民主党ではないかも)に政権が移ることだろうと予想しています。

ルーズベルトの著作から分かっていることは、ルーズベルトが沖縄などの帰属について何にも歴史的事実を知らなかったことが分かります。このような戦争勝利者が手をつけ、力をもって押し付けた戦後処理ですから変なところが出るのも当然でしょう。

ロラン・バルトという人は知らなかったのですが、シャネルとクレージュを論じた文章の中で、卓越性を主張するモードと単なる若さを主張するモードというものがあるということを言っているそうですが、著者が見るところ現在の日本では卓越性主張モード(卓越性ドーダと言っています)はほとんど消えてしまい、今は老いも若きも「若さドーダ」ばかりになってしまっているようです。確かに結構な年の人でもただ若いだけという主張が多いように見えます。
卓越性(金持ちだとか、生れや育ちが良いとか、能力があるとか)の主張というのは、いやらしく見えるということもありますが、それなしでは文化というものが無くなってしまいそうです。