爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「内田樹の研究室」より、「県立大学の無償化」

内田樹さんのブログ「研究室」で、某県立大学の無償化を提案されたという話です。

blog.tatsuru.com

大学の授業料はかなり高額となっており、日本でも一昔前の公立大学は非常に安い入学金・授業料だったのが急激に上げられてしまいました。

 

「大学を出て高給取りとなるのだから高い授業料もやむを得ない」という考えが強まったのでしょうが、その結果として大学そのものが実業界へすり寄るようなこととなり、ごく一部の短期的な効果が見込まれる分野だけに注力するという結果になってしまいました。

 

内田さんが書かれている実情はまさにその通りで、現在の大学納付金は高校生自身が払えるような額ではなく、金主としての親が出さざるを得ないということとなり、親の意見に逆らえないことともなります。

学生が自らの意志で進路を選ぶということも難しくなり、親の意見で「生活安定路線」を選ばされるという事態にもなりがちでしょう。

 

そこで、久々に某県知事から懇談に招かれた時に、同じく招かれた鷲田青一先生が知事に提案したのが「県立大学無償化」だったそうです。

県立大学ならさほど規模も大きくないので影響も少ないとか。

まあ難しい話でしょうが、それを受け止めるだけの器量がその知事にあるかどうか。

 

しかし、その県立大学だけでなく国公立大学すべてで考えるべき問題でしょう。

「スペイン通史」川成洋著

スペインは日本との関係がそれほど深いとは言えず、戦国時代の末期にやや触れ合った程度でその他はさほど馴染みのある歴史ではないようです。

歴史の教科書で習った覚えがある事項でも、アルタミラ洞窟の壁画、かなり飛んで後ウマイヤ朝レコンキスタ、新大陸の富の強奪、そしてスペイン内戦とフランコ政権といったところでしょうか。

 

しかしこの本のように「通史」という形で概観すると、多くの民族が通り過ぎていったようで、その幾分かは残って積み重なり現在のスペインというものを作り出していたようにも見えます。

 

本書「はじめに」にも書かれているように、スペインの歴史は「激変」というのが相応しいほどに変転極まりないものです。

その担い手も古代から多くの民族がやってきては作ってきました。

バスク人ケルト人、フェニキア人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン三民族、西ゴート人、イスラム教徒、ユダヤ人、ハプスブルク王朝、ブルボン王朝などが入り乱れて足跡を残しています。

中にはヨーロッパを席巻する勢力となったものもあります。

波乱万丈の歴史は近代から現代に至っても同様であり、スペイン内戦からフランコ独裁、王朝復古と政治体制も大きく変動するという情勢です。

 

紀元前15000年頃のものとみられるアルタミラ洞窟の壁画というのは誰でも聞いたことがあるかもしれませんが、それがスペインにあるということはそれほど知られてはいないかもしれません。

クロマニヨン人によって書かれていますが、現在では後期石器時代の「マドレーヌ文化」に属するものと言われています。

 

その後、紀元前3000年頃にはおそらく北アフリカの住民がジブラルタル海峡を渡ってきましたが、その民族は不明です。

その後、ドルメンなどの巨石の遺産を残した巨石文化の住民たちがやってきましたが、この民族も不明です。しかしスペインだけでなくイギリスやフランスにも巨石文化の遺跡を残しました。

 

フェニキア人がスペインにやってきて交易都市を作ったのは紀元前1200年から800年頃にかけてのことですが、その頃には北部からケルト人も進出しています。

さらにギリシア人も植民都市を建設していきます。

 

やがてカルタゴ支配下にはいるのですが、そのあとにはローマ帝国が進出してきます。

ローマ軍はイベリア半島の制圧に200年もかかりましたが、制圧後はローマ属州ヒスパニアとしてローマの経済を支えるところとなり、ヒスパニア出身の皇帝も何人も出しています。

 

その後侵入してきた西ゴート人が西ゴート王国を建てるのですが、それが衰退した頃にはイスラム教徒の侵入と後ウマイヤ朝の樹立があり、かなりの繁栄をすることになります。

北部の山地に押し込められたキリスト教徒ですが、レコンキスタという回復運動が強まり、アラゴン王国のフェルナンド2世とカスティーリャ王国のイサベル王女が結婚することで両王国が統一され、最終的にはイスラムを追い出してスペインの回復となります。

 

その後は王家間の通婚によって血縁が深まりハプスブルク家がスペインを領有、神聖ローマ帝国皇帝を兼ねることもありヨーロッパの中で勢力を増していきます。

 

その後の経過は略しますが、どこを見ても戦争と流血、拷問と虐殺が次々と起きます。

それは20世紀になっても同様で、フランコ政権の反対派虐殺や市民の暴動など次々とつながっているかのようです。

一時は新大陸の銀を大量に獲得しヨーロッパでも大きな力を持ったのですが、その銀は結局は国を豊かにするのには使われなかったようです。

難しい国情であり、それは今でも続いているのかもしれません。

 

 

水素の利用について当然の指摘、近藤邦明さんの「環境問題を考える」より

近藤邦明さんの「環境問題を考える」というサイトは以前から大変参考にさせて頂いているところですが、そこの最新記事でSDGsの欺瞞性を批判した中で、水素について書かれている部分は非常に面白いものでした。

www.env01.net

(上記の記事引用で表題が違っていますが、目的のところが開くようです)

 

水素に関して書かれている前半で、水素製造に大量のエネルギーを使うことのバカバカしさは当然の話ですが、後半の自動車に積み込む場合の問題点は興味深いものです。

 

トヨタが従来の水素を燃料電池に使うタイプではなく、エンジンで燃焼させる水素エンジン車に注力しているのですが、これもどうやらまったく実用性が乏しいものだということです。

 

水素を燃料として使うためには圧縮した状態でタンクに充填しなければならないのですが、それが700気圧が必要とのことです。

相当な耐圧容器が必要となるのですが、それほど圧縮したとしても単位体積あたりのエネルギー密度はガソリンの4分の1以下だとか。

すなわち、同じだけのエネルギー量を搭載するためにはガソリンの4倍のタンク、それも耐圧性能の高い重いタンクを必要とするということです。

 

昨年開かれた自動車耐久レースにトヨタの水素エンジン車が参戦したということはCMでも盛んに流されましたが、その結果はほとんど話題にもなりませんでした。

しかし50㎞に一度ピットインしなければならないという状況で惨敗だったそうです。

まあ現状ではほとんど実用性は無し、今後も見通しは暗いということです。

 

しかし700気圧の燃料ってタンクの耐圧性も厳しいでしょうが、ステーションでの注入も大変な機械と作業性なんじゃないでしょうか。

 

「思想オンチの思想」安岡章太郎著

安岡章太郎は戦後の文壇で「第三の新人」と呼ばれ、少し遅れて出現した人たちの中の一人です。

他には吉行淳之介遠藤周作がそう呼ばれていました。

 

1960年代初頭に安岡はアメリロックフェラー財団の資金によりアメリカに半年間留学し、その後はエッセーを多く書くようになったということです。

 

この本も60年代の事柄や、アメリカの事情などが多く書かれていますので、主にその頃に書かれたものでしょう。

ただし、文庫版のあとがきには本人の1974年に書かれたものがありますので、まとめられたのはその頃ということでしょうか。

 

1960年代といえばまだまだ戦後の混乱の跡があちこちに残っており、まだ高度経済成長の前で日本の経済力もごく低いものでした。

そのためか、その少し後の様々な人々の文章と比べても日本というものの扱いが控え目なようです。

60年安保の混乱も日本の後進性の現れだといった考えが見えます。

 

アメリカでも滞在地がテネシー州ナッシュビルということで、まだ人種差別の風潮が強かったのでしょうか。

それでも留学生仲間には他の多くの国からの人々がおり、そこでの「小国意識の現れ」というのも現代では見られないものかもしれません。

もちろん、日本も小国として意識されています。

 

時代による意識の移り変わり、わずか60年ほどの間に日本人のそれも大きく波打ってしまったということでしょう。

 

10年に一度?の強い寒波がやってくるそうで。

24日から25日にかけて、10年に一度とも言われる強い寒波が来襲、大雪や低温など被害が出ることも予想されるとか。

特に普段あまり冷え込まず雪も降らない地方では注意が必要と言われています。

 

熊本でも最低気温がマイナス4度まで下がるというご託宣で、水道管凍結に厳重注意ということです。

 

我が家は地下水汲み上げで水道管が露出している部分もほとんど無く、温水器だけ注意していれば良いのですが、5㎞ほど離れている家内の実家は上水道使用でしかも古い家で水道管が露出しているということで家内は慌ててホームセンターを廻って水道管に取り付けるカバーを買い込み、くるんでくるそうです。

 

40年ほど前に就職してこちらに赴任した当時は寒さも激しく、工場の太い給水パイプが凍結して割れたという事故もありました。

しかしその後はさほど冷え込むことも無く、そういった事故とは長い間無縁だったようです。

 

さて、どれほどの冷え込みになるのか分かりませんが、まあ暇な老人ですので昼間からこたつにもぐりこんで過ごしましょう。

 

しかしこのところの寒さでエアコンやこたつがフル稼働、先月の電気代は初めて2万円突破ということで家計にとっても大変なことになっています。

 

それにしても「温暖化」しているんじゃないんかい。

なんでこんなに寒いの。

「ダイエット効果のあるゼリー」所持で逮捕。しかし個人輸入は野放しで健康被害続出。

「ダイエット効果のあるゼリー」を販売目的で所持していたとして、ベトナム人が逮捕されたというニュースです。

news.yahoo.co.jp

これに含まれていた成分はシブトラミンというもので、アメリカでは医薬品として承認されましたが、日本では未承認のままです。

「健康食品」の安全性・有効性情報

アメリカでは1997年に肥満抑制として承認されましたが、その後死亡例が多発したことから承認は継続されているものの注意喚起されてはいるようです。

他の国でもいったん承認された後に禁止された例もあります。

 

食欲抑制の効果は認められるものの、血圧上昇や心拍数増加と言った副作用があり、心血管疾患リスクが高まる恐れがあるということです。

 

日本では未承認のまま、すなわち販売などは禁止ということで、上記のように国内で販売目的で所持していたら逮捕されますが、個人輸入した場合は自分で摂取するのならば違法ではなく、その方法で購入する人が増えているようです。

多くの健康被害が報告され死亡者も出ています。

 

これに対しては国や自治体から頻繁に注意喚起されていますが、あまり効果は上がっていないようです。

ネットを見れば堂々と個人輸入のCMも上がっており、それにつられてしまう人もいるのでしょう。

ニュースなどで取り上げても最近はテレビなども見ない若い人が増えています。

私のブログなど若い人はあまり見ていないでしょうが、少しでも書いていきたいと思います。

「オランダ風説書」松方冬子著

江戸時代の日本が鎖国であったというのは正確ではないようですが、それでも日本人の海外渡航は厳しく禁止され、海外からの来訪も制限されていました。

そのような状況の中で世界情勢について海外からもたらされた貴重なものが「オランダ風説書」でした。

これは、オランダの東インド会社が日本に置いた長崎商館の商館長が定期的に幕府に提出したものでした。

それによってヨーロッパや東南アジアの情勢を幕府は把握していました。

 

そもそも、ポルトガルなどがキリスト教布教を手段として入り込むことを警戒しポルトガル締め出しを決めたのですが、それでも海外とのつながりを維持したいということで、カトリック国ではなかったオランダのみを通商相手としたのですが、特にポルトガルの動向を危険視した幕府はオランダ商館にその情報提出を義務化し、それを条件に通商を許すということで風説書提出が始まりました。

しかしオランダ側からすれば他のルートの情報流入が閉じられている中で、「何を書いても分からないだろう」という思いからかなり情報操作も行なわれたようです。

特にオランダにとってまずいことは伏せるということが行われました。

 

風説書もその性質が徐々に変わっていきました。

17世紀に始まった頃にはとにかくポルトガルを危険視し、その動向について詳しく触れることが求められました。

しかし18世紀になるとポルトガルの力も弱まり、オランダも徐々に勢力を弱めていたために日本から見れば安定した状況となり風説書も大したことも書かないという時期もありました。

ところがイギリスの海外進出が強まり、特に中国に対しての進出が強化されると対岸の火事と見るわけにもいかず、またその他の国も日本も含めて東アジア進出ということになり、オランダの情報も性質を変えていくこととなります。

そして幕末に各国と幕府が直接交渉せざるを得なくなるとオランダ風説書もその歴史の役割を終えて消えることになりました。

 

初期の頃の「通常の風説書」の作り方というものが詳述されています。

商館長や船長たちが長崎に入港すると、そこで長崎奉行、長崎町年寄、そしてその配下の通詞(通訳)が情報を聞き取ります。

通詞たちはその中から幕府に提出する内容を整理して清書するのですが、その情報の取捨はかなり恣意的であったようで、その後のつじつま合わせが大変ということもあったようです。

 

ポルトガルの排除には成功したオランダですが、その他の国も日本通商を求めて来航するといった事態が続きます。

オランダとしてはなんとか日本の通商を独占しようと努力し、それが風説書に書かれる事項に影響します。

フランスなどはカトリック教国だということで門前払いをさせますが、イギリスは一応新教国でありその排除に苦労したようです。

一時イギリス王がカトリック回帰ということでポルトガル王女との婚姻が成立したことなどをオランダは利用し風説書に強調するということがありました。

幕府もそれを重要視し、ポルトガル王女はまだイギリス王妃かといった質問をしたようです。

 

オランダの東インド会社の日本相手の貿易で初期の重要品目はペルシア産やベンガル産の生糸だったようです。

その代価として日本産の銀を大量に取得しました。

しかし日本側が銀の支払いを禁じたため他の決済品目に苦労しました。

さらにペルシアやベンガルの生糸生産も縮小したためこれらの貿易は廃れ、オランダから日本にもたらされる品目は書物や薬種だけとなっていきます。

また、日本国内での生糸生産も徐々に拡大し、その後はかえって日本からの重要輸出品目となっていきます。

江戸時代の日本の産業の成長が大きく左右したようです。

 

このように長期間にわたって海外情報を流し続けた事例は珍しいものです。

中国は海外との交流は続けたものの、その情報にはほとんど興味を持ちませんでした。

朝鮮は海外交流は行わず、情報も中国を通して得るのみでほとんど世界の情勢は耳にしないままでした。

幕末の海外からの来訪が相次いだ頃にも、オランダから得られた情報をもとにできるだけの対処はしていたようです。

通常の認識のように「太平の眠り」をむさぼるだけではなかったようです。

それでも不十分ではあったのですが。