江戸時代の日本が鎖国であったというのは正確ではないようですが、それでも日本人の海外渡航は厳しく禁止され、海外からの来訪も制限されていました。
そのような状況の中で世界情勢について海外からもたらされた貴重なものが「オランダ風説書」でした。
これは、オランダの東インド会社が日本に置いた長崎商館の商館長が定期的に幕府に提出したものでした。
それによってヨーロッパや東南アジアの情勢を幕府は把握していました。
そもそも、ポルトガルなどがキリスト教布教を手段として入り込むことを警戒しポルトガル締め出しを決めたのですが、それでも海外とのつながりを維持したいということで、カトリック国ではなかったオランダのみを通商相手としたのですが、特にポルトガルの動向を危険視した幕府はオランダ商館にその情報提出を義務化し、それを条件に通商を許すということで風説書提出が始まりました。
しかしオランダ側からすれば他のルートの情報流入が閉じられている中で、「何を書いても分からないだろう」という思いからかなり情報操作も行なわれたようです。
特にオランダにとってまずいことは伏せるということが行われました。
風説書もその性質が徐々に変わっていきました。
17世紀に始まった頃にはとにかくポルトガルを危険視し、その動向について詳しく触れることが求められました。
しかし18世紀になるとポルトガルの力も弱まり、オランダも徐々に勢力を弱めていたために日本から見れば安定した状況となり風説書も大したことも書かないという時期もありました。
ところがイギリスの海外進出が強まり、特に中国に対しての進出が強化されると対岸の火事と見るわけにもいかず、またその他の国も日本も含めて東アジア進出ということになり、オランダの情報も性質を変えていくこととなります。
そして幕末に各国と幕府が直接交渉せざるを得なくなるとオランダ風説書もその歴史の役割を終えて消えることになりました。
初期の頃の「通常の風説書」の作り方というものが詳述されています。
商館長や船長たちが長崎に入港すると、そこで長崎奉行、長崎町年寄、そしてその配下の通詞(通訳)が情報を聞き取ります。
通詞たちはその中から幕府に提出する内容を整理して清書するのですが、その情報の取捨はかなり恣意的であったようで、その後のつじつま合わせが大変ということもあったようです。
ポルトガルの排除には成功したオランダですが、その他の国も日本通商を求めて来航するといった事態が続きます。
オランダとしてはなんとか日本の通商を独占しようと努力し、それが風説書に書かれる事項に影響します。
フランスなどはカトリック教国だということで門前払いをさせますが、イギリスは一応新教国でありその排除に苦労したようです。
一時イギリス王がカトリック回帰ということでポルトガル王女との婚姻が成立したことなどをオランダは利用し風説書に強調するということがありました。
幕府もそれを重要視し、ポルトガル王女はまだイギリス王妃かといった質問をしたようです。
オランダの東インド会社の日本相手の貿易で初期の重要品目はペルシア産やベンガル産の生糸だったようです。
その代価として日本産の銀を大量に取得しました。
しかし日本側が銀の支払いを禁じたため他の決済品目に苦労しました。
さらにペルシアやベンガルの生糸生産も縮小したためこれらの貿易は廃れ、オランダから日本にもたらされる品目は書物や薬種だけとなっていきます。
また、日本国内での生糸生産も徐々に拡大し、その後はかえって日本からの重要輸出品目となっていきます。
江戸時代の日本の産業の成長が大きく左右したようです。
このように長期間にわたって海外情報を流し続けた事例は珍しいものです。
中国は海外との交流は続けたものの、その情報にはほとんど興味を持ちませんでした。
朝鮮は海外交流は行わず、情報も中国を通して得るのみでほとんど世界の情勢は耳にしないままでした。
幕末の海外からの来訪が相次いだ頃にも、オランダから得られた情報をもとにできるだけの対処はしていたようです。
通常の認識のように「太平の眠り」をむさぼるだけではなかったようです。
それでも不十分ではあったのですが。