爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

野中広務さん亡くなる 存在感のある政治家でした

自民党議員で、数々の要職を歴任された野中広務さんが亡くなったそうです。

www.tokyo-np.co.jp

享年92歳ということで、仕方のないことでしょうが惜しいという気がする方でした。

 

若い頃から反自民という立場の私から見ると、野中さんは敵役としては最強に近いような剛腕政治家という印象でした。

 

それがまったく見方を変えさせられたのが、野中さんの書かれた本を読んでからのことです。

野中さんが被差別部落の出身であること、そしてそのことで受けた理不尽な仕打ちで政治を志したことなどを知りました。

sohujojo.hatenablog.com

ただし、そのような経歴であっても例えば差別反対運動であろうと間違ったと思う活動には厳しく反対するということもあったようで、非常に自身の信念に忠実な方であったようです。

ハト派の重鎮」などと言われることも多かったようですが、単なるハト派ではなかったと言えるかもしれません。

 

自民党でも大物と言える人たちはどんどんと世を去っていくように感じます。

残されるのは上から下まで小物とバカばかり。

ちょうど、野中さんの経歴を紹介している新聞紙面の片隅に、「国会で沖縄ヘリ不時着事故を取り上げた質問中に、”それで何人死んだんだ”と馬鹿なヤジを飛ばした内閣府副大臣が辞任」という記事が出ていました。

あきれるほどの事態です。

まあ、野党にもろくな議員はいないけど。

 

「アーリア人」青木健著

アーリア人」と聞くとどうしてもナチス・ドイツが利用した人種論を思い出してしまいますが、実際にアーリア人と言うべき人々はイランからインドにかけて住んでいた牧畜民で、その後は様々な方面に散っていきました。

他の民族と同化したものもあります。

 

本書はナチスの言ったような北方系のアーリア人なるものはごく簡単に触れるのみで、正統派というべき中央アジアからイランにかけての人々について詳細に語ったものです。

 

しかし、やはりドイツなどのアーリア人概念がどうして生じたかについてから紹介しておきましょう。

インドヨーロッパ語族と言われる、共通の祖語から生じた言葉を話す人々は主にイランを中心とした地域から各地に移動していきました。

実は見た目も相当違うヨーロッパ人とイラン人、インド人が共通の祖先を持っているということは、ようやく18世紀になって知られるようになりました。

インドがイギリスの支配下におかれ、イギリス人が多数インドに入り込むようになると、言語学者もインドに赴きました。そこで彼らがふれたサンスクリット語は驚くほどヨーロッパ言語と共通でした。

そこから、人種的にも共通祖先を持っているという認識になっていきます。

 

そして、それは常にヨーロッパより先行していたセム系民族に対するコンプレックスをひっくり返そうとする意識にも影響されました。

ユダヤ教キリスト教も、セム民族が生み出しました。

それに対するにアーリア人種であるという自意識が必要だったようです。

実際はイランから発した一部の人々がヨーロッパに達し、北方民族と混血して生まれたもののようです。

 

本書の中心はウクライナから中央アジアにかけての草原に栄えた騎馬遊牧民であるキンメリア人、スキタイ人、サカ人、パルティア人、

そしてインドに進出したインドサカ人、インドパルティア人、

さらにイランの地で世界帝国を樹立した、メディア人、ペルシア人、等々です。

イランにイスラームが入って後は、イラン系アーリア人の生き残りのパシュトゥン人やペルシア人イスラム化して現代まで続いています。

 

イラン系アーリア人の宗教としてはゾロアスター教が有名ですが、その形態も各時代、各地方で違いはあるようです。

しかし、どれもイスラム化の後には消え去ってしまいました。

 

なお、この地域の文化研究はかつてはギリシア語文献によるものがほとんどであり、使われる用語もギリシア語からのものでした。

本書ではできるだけイラン系アーリア語で表記をしたということで、あまり聞き慣れないものもありました。

たとえば、「ハカーマニシュ王朝」とは何かと思えば、「アケメネス朝」のことで、かつて慣れ親しんだ「アケメネス朝ペルシャ」のことでした。

また、「ザラシュストラ」も「ゾロアスター」のことでした。

 

歴史もどの方向から眺めるかによってその見え方が大きく異なってくるようです。

 

 

アーリア人 (講談社選書メチエ)

アーリア人 (講談社選書メチエ)

 

 

八代の古墳 高島古墳

八代歴史散歩も西南戦争関連地は遠いところが残っているのでちょっとお休み。

近いところで、古墳を訪ねてみました。

八代高島古墳。

高島古墳群 / 観光サイトTOP / 八代市

 

市内高島町にある、高島という丘の上にあります。

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この丘全体が古墳というわけではなく、これは元々は八代海に浮かぶ石灰岩の小島でした。

ここは陸地にも近かったので、江戸時代には周囲は干拓され地続きとなりましたが、古墳時代にはまだ満潮時には波をかぶるようなところだったのでしょう。

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江戸時代初期には周囲の干拓地守護のための神社や寺院が設けられたようです。

かつてはこちら側からの石段で頂上に登れたのですが、熊本地震の時に落石があり石段側からは登れなくなっています。

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そんなわけで、裏側の市の水道関連設備用の取付道路から登りました。

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右側の円筒形の建物が水道施設、左奥に古代の墳墓があります。

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これと言って構造物があるわけでもなく、囲いがしてあってここから出土したという立て札があるだけでした。

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古くなってほとんど読めません。石棺が出たということが読み取れます。

 

山の頂上からは遠くの方にもう一つの古墳の所在地、「大鼠蔵山」が見えます。

写真中央、約5kmほど先の小山です。

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鼠蔵の近くには万葉集にも歌われたことで知られる名勝「水島」があります。

行ってみたいけれど、自転車ではちょっと厳しい距離ですので、どうしよう。

高島は家から往復6kmの散歩でした。

 

プロセッサの脆弱性の問題はIoTの危険性に直結

IoTが産業の活性化につながるといった期待論ばかりが目立ちますが、その根本的な危険性に触れた記事がありました。

www.itmedia.co.jp

脆弱性」とは悪意のある侵入を許すようなシステムの問題点ですが、プロセッサばかりでなくWindowsやその他のプログラムなど、どこにでも存在し、脆弱性への対策は頻繁に行われています。

毎日のようにアップデートを行っているのは目につきます。

 

しかし、この記事の中にあるように、IoT機器に搭載されたデバイスはそのような自動アップデートの機能を持たせている例は少ないようです。

 

つまり、脆弱性があってもそのまま放置されている機器が多数あるということです。

 

このようなIoT機器でなんでもできるかのような幻想を持ち、大切な業務やもし悪意のある操作をされれば危険なことなどを利便性に惑わされて導入したら大変なことになるかもしれません。

 

ちょっと前のニュースですが、自動運転を行う自動車の制御部に外部からの侵入があり、勝手に動かされて事故を引き起こすということも報道されていました。

個人の自動車ならまだ単発事故で済みますが(それでも周囲も危険ですが)さらに大きなものであれば危険性も格段に増します。

 

ゆくゆくは、どんなデバイスでも自動アップデートを可能にすれば万全とは言わなくても危険性は下がるでしょうが、そのような対策が可能でしょうか。

とりあえずは、しばらくは飛びつかずに様子を見たほうが良さそうです。

 

「鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来」ポール・グリーンバーグ著

クロマグロやサンマ、ウナギ等々、日本の漁業の将来を不安視させるような出来事が続発していますが、漁業資源の枯渇という点では欧米の方が先に問題化しているようです。

タラやサケなどは乱獲でほとんど資源枯渇させたということをやっています。

 

この本は漁業資源の問題を扱ったもので、養殖資源についても提言をしているということから、私が最近非常に興味を持っている分野の書籍なのですが、いかにも読みにくいと感じさせる本でした。

 

どうもアメリカなどの自然科学とくに環境分野の専門家やジャーナリストが書く本というのは、非常にエピソードの羅列が過剰なように感じますが、本書もその通りの作りになっています。

最後に、「まとめ」というコーナーが設けられていますが、「ここだけ読めば十分」と感じさせるものでした。

347ページのハードカバー、定価2400円+税という本のほとんどは余計。

まあ、購入した本ではなく図書館で借りて読んだ本なのであまり文句も言えませんが。

「まとめ」だけの小冊子にして500円ほどであれば買って読む価値は十分にあります。

 

しかし、中身はかなり重要な事が書いてありますので、まとめのところから紹介しておきます。

 

漁業資源をできるだけ守り再生していかなければならないのですが、そのための提言として次のようなことを挙げています。

1漁業活動の全面削減

 全世界の漁船の数は持続的な漁業に必要な数の2倍あるそうです。

 各国は漁業振興策として漁船に対し補助金を出していますが、それがまったく逆に作用しています。

2重要な区域を禁漁区とすること

 漁業資源を回復させるためには、繁殖に適する海域を禁漁としなければなりません。

3管理不能な魚種には国際的な保護を

 禁漁区設定程度の方策では回復できないような魚種は捕るべきではないという、極めて当然の提言です。

 おそらくニホンウナギもその中に入るのでしょう。

食物連鎖の底辺を守ること

 養殖が世界的にブームとなっていますが、その飼料にはカタクチイワシ、マイワシ、ニシンなどの魚が使われています。

 大型の高級魚はその重要性から資源調査や環境についても調べられていますが、餌となる小型魚などはあまり知られないまま大量に捕獲されています。これは根底から漁業を破壊する可能性があることです。

 

そして、養殖漁業に対しての提言もされています。

1効率が良いこと

 餌の量に対してあまりにも魚体の成長が遅いものは養殖すべきではありません。

クロマグロなどは20分の1程度の効率です。餌を大量に消費してしまいます。

2野生の系に対して破壊的でないこと

 サケでは野生種と近縁の系統を養殖すると野生群に対して悪影響が出るということです。そのような養殖は危険です。

3数を限ること

 飼育法が確立された種だけで止めるべきです。なんでも養殖というのは悪影響ばかり出てきます。

4順応性があること

 魚を餌としなくても海藻や大豆を代替できるサケなどは順応性が高いものです。

5混合養殖が可能なこと

 陸上の農畜産業でも単種栽培は病気に弱く環境へ悪影響が出ます。養殖でも他種混合が必要です。

天然魚を捕る漁業というものは相当の制限が必要なようです。

それとともに、養殖漁業もなんでもできるわけではなく、規制すべきものなのでしょう。

今の日本の水産行政ではどちらも無理のようですが。

 

鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来: 最後に残った天然食料資源と養殖漁業への提言

鮭鱸鱈鮪 食べる魚の未来: 最後に残った天然食料資源と養殖漁業への提言

 

 

世代間倫理というものについて

近頃考える事の多い、「世代間倫理」について、思考の跡を記しておきます。

 

世代間倫理のようなことは、自分で独自に考えてはいたのですが、本で読んだというのは加藤尚武さんの「環境倫理学のすすめ」というものでした。

sohujojo.hatenablog.com

その中では、環境倫理の中の重要な構成要素として世代間倫理というものが紹介されていました。

 

しかし、考えてみれば環境に限った話ではなくどんなことでも数十年以上に及ぶものは大体「世代」に関係してくるはずです。

おそらく、30年程度を越えたものはほとんど自分の世代だけでは完結することはできず次の世代に任せるしか無いのではないでしょうか。

 

そういったものは、環境に関するものでも「公害による環境汚染」「二酸化炭素濃度上昇による温暖化」「石油など化石燃料の枯渇」といったものが挙げられるでしょう。

 

さらに、「原発廃炉」なんていうこともとても1世代だけでは完結不可能です。

現在の操業中の原発で、計画的に実施できる場合でも最終的に撤去できるまでは30年以上、福島原発のように事故で破壊されたものはそれよりはるかに長い時間が必要になります。

当然ながら現在の現役の担当者はその時にはすでに引退どころか生きているかも分かりません。

 

環境に関係ないところでは、「日本国の財政再建」です。

1000兆をはるかに越える国債などの借り入れはたとえ1年あたり10兆円を返したとしても100年以上かかるわけです。

子供や孫どころではなく、その下の代まで行っても返しきれません。

それが今はまだ返し始めるまでにも至っていないのですから、もう国の破産を待っているとしか言いようがありません。

 

世代間倫理のほとんどは悪い話ばかりですが、かつて聞いたことのある「山林の管理」は少し良い話かもしれません。

以前の「山持ち」つまり山林の所有者は販売のために木を伐採すると必ずそこには新たに苗木を植えました。

その苗木が大きくなって立派な木になり売れるようになるのは、植えた人の子供か孫の代になってからです。

これはまさに世代を超え継続する林業というものの形だったのです。

 

さて、それでは「世代間倫理」に関して最も私が考えることの多い「化石燃料の使用」についてです。

石油や天然ガスといった化石燃料は数億年前の浅い海に大量に繁茂していた藻類が太陽エネルギーを光合成によって変換して作り出した炭化水素が、地殻変動で地中に埋められて濃縮しできたものです。

その量は、原油換算で2兆バレルとも6兆バレルとも言われていますが、それは人間の欲望をどこまでも叶えてくれる量ではありません。

すでに原油1兆バレルを使い果たしたと言われています。

それも本格的に使いだしてからは100年も経たない内にです。

地球が数億年をかけて作り出したものを、わずか数世代の人類が使い果たす。人類だけが使って良いのかどうかも問題ですが、人類の中の話としても数世代あとの人類はもう使えるだけの石油が残っていないことになります。

これが「世代を超えた倫理」につながります。

我々の世代だけが勝手気ままに使い切って良いものなのかどうか。それもちょっと生活を便利にとか、景気を良くして金儲けできるようにとかいった理由で。

 

私はそんなことは許されないと思います。

 

ではどうするべきなのか。

この「するべき」というのが「倫理学」特有の考え方と思います。

「どうした方が徳か」とか、「どうしたら面白いか」ではなく、「するべき」を言うためには何らかの基準が無ければ語ることができません。

この基準というものが、この場合は「世代をずっとつなげていく」ということだと思います。

 

最近は「持続的」という言葉を聞くことが増えました。

やはり「子々孫々までつなげていく」ということを意識する人も増えたのでしょう。

中には「持続的成長」などという勘違いをしている人もいますが。

 

子々孫々の生活や社会というものを想像してみる。そこから振り返って現在の社会のあり方を見直してみる。そういったものが「世代間倫理」であるとすれば、それは難しいことではなく、丁寧な想像力を使っていくことだと思います。

 

草津白根山が突然噴火

群馬県草津白根山本白根山が突然噴火しました。

警戒していた白根山の方ではなかったこともあったのかもしれませんが、ほとんど前兆を感知しないまま噴火に至ったため、噴火口のすぐそばに居た人もあり、死者や負傷者を出す事態となりました。

www.yomiuri.co.jp

どうやら、前兆現象が検知できないほどの小さな噴火といった程度のもののようです。

それでもそのすぐそばに人がいれば危ないのも仕方のないことでしょう。

 

この前の木曽御岳の噴火の際もほとんど前兆現象のないままの噴火で多くの犠牲者を出しました。

今回ももしも休日であればもっと被害は大きかったかもしれません。

 

火山国日本はどうしても噴火に遭う危険性が避けられないのですが、それ以上に火山は大きな観光資源でありそこに訪れる人も多いということがあります。

実は、私もこの白根山には数回行ったことがあり、今回の被害の集中したスキー場のそばを通ったこともあります。

 

熊本地震あたりから、各地で大きな地震や火山噴火が続いていると感じていましたが、このところようやく落ち着いてきたかと思った矢先の噴火です。

まだまだ危ない時期が続くかもしれません。

本当に危惧しているのは東京直下地震です。熊本地震どころか、東日本大震災の被害もはるかに越えることになるかもしれません。