「汽笛一声新橋を」という最初の部分は誰でも知っていることでしょう。
この歌は1900年(明治33年)に大阪の三木楽器という音楽出版社から出版されました。
作曲は上真行(うえさねみち)と多梅稚(おおのうめわか)、この二人が別々の曲を作り、その両方の譜面を付けていたようです。
なお、第2集の「山陽九州編」以降は別の作曲者の曲を付していたのですが、結局は最初の2曲のうちの多の曲だけが生き残り、今歌われているのはその曲です。
作詞は第1集の東海道編から最後まで、すべてを大和田建樹(おおわだたけき)という人物が担当しました。
大和田は伊予国宇和島藩士の子として生まれ、その後東京高等師範学校の教授となったものの退職して文筆家となったという人物です。
第1集の東海道編が1900年5月10日の出版ですが、好評ということで第2集の山陽九州編が9月3日、さらに続けざまに第3、第4と出して、第5集は10月3日とわずかの期間に作り上げています。
おそらく実際に汽車に乗って現地取材などということはしていないようで、内容を見ると支線の分岐の方向が逆だという部分もあるようです。
それでも、沿線各地の名物や名所旧跡をたくみに配し、旅情をかきたてるように作られています。
第1集東海道編の1番は誰でも記憶にあるでしょう。
汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に消え残る 月を旅路の友として
2番もかろうじて覚えているところです。
右は高輪泉岳寺 四十七士の墓所 雪は消えても消え残る 名は千載の後までも
4番になるとほとんど普通の人は聞いたこともありません。
梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の 大師河原は程近し 急げや電気の道すぐに
川崎駅からは川崎大師まで通じる大師電気鉄道(現在の京急大師線 ただし現在とは別のルート)がすでに開通していました。この前年の操業開始です。
そのあと大船からは少し寄り道をして鎌倉方面へ向かいます。
そこでは何篇かを費やして描写しているのに、その先では大きな街もすっ飛ばし、静岡では当時も結構大きく栄えていた掛川、袋井、中泉(現在の磐田)も一言ずつ駅名を並べるだけです。
第25番
掛川袋井中泉 いつしかあとに早なりて さかまき来たる天龍の 川瀬の波に雪ぞちる
なお、ここで天竜川を渡る鉄橋は、当時としては日本最長の1209mであり、トラスが19連続くという堂々たるものでした。
このトラスの1連が鉄橋架替の際に箱根登山鉄道に払い下げられ、早川橋梁(出山の鉄橋)として今でも使われているそうです。
第2集「山陽・九州編」は当時はまだ私鉄であった山陽鉄道(現在の山陽電鉄とは無関係)とやはり私鉄の九州鉄道を扱っています。
山陽鉄道は神戸から山口の三田尻(現在は防府)までしか開通しておらず、その先下関までは工事中でした。
九州鉄道は門司停車場(現在の門司港駅)から八代までの路線です。
歌詞で興味深いのは第51番でしょうか。
眠る間もなく熊本の 町に着きたり我が汽車は 九州一の大都会 人口五万四千あり
当時はまだ熊本が九州一の人口でした。
福岡に人口で抜かれるのは昭和8年だったそうです。
そのため、陸軍第6師団も熊本、その他にも国の出先機関が熊本に置かれていました。
今でも九州財務局や九州農政局は熊本に置かれています。
第4集の「信越・北陸編」では、まだ上越線が開通していなかったので碓氷峠をアプト式鉄道で登り長野を通って直江津から新潟方面に向かいます。
また、富山方面は親不知の難所がありまだ鉄道は開通しておらず、富山の伏木港行きの船を使うしか無かった時代です。
富山からはこの1年ほど前に現在の北陸本線のルートが米原まで開通していました。
なお、長野県でも中央線はまったく建設されておらず、諏訪湖に向かうにも信越線経由で大屋駅から和田峠を越えるしかなかったとか。
当時の人々はまだほとんど旅行というものにも縁がなかったのでしょうが、それへの憧れというものを上手く形にしたものが鉄道唱歌というものだったのでしょう。