にんげん出版という出版社の発行したこの本は「管理職検定」というシリーズらしいので、企業の管理職クラスが差別語などを不用意に使ってトラブルを起こさないようにと言う狙いで書かれたものかもしれません。
口は災いの元と言いますが、相変わらずテレビ放送の途中に「不適切な発言がありました」などというお詫びのテロップが入ることがあります。
しかし、本書によればそのお詫びもきちんとした形式によらずに単に入れただけでは、何が「不適切」なのかも分からず混乱させるばかりです。
これこれの表現は差別表現であるがこの作品発表当時の社会はこうであった。などとするべきなのですが、そうでない場合も往々にしてありそうです。
人と人とが違うという、「差異」というものは必ず存在します。
しかし、その差異を差別の理由付けにしてそれを表す言葉を「差別語」とするのはそれを使う人の意識の中に差別感があるためです。
また、差別というものは国家のイデオロギーや社会制度によっても作り出されることがあります。
それらが変わったことにも気づかない人々は差別語も相変わらず使い続けることになります。
差別語は単に言い換えれば済むのかというのも問題になります。
これも言い換えマニュアルのようなものを作って機械的に置き換えるだけということも行われており、それに対する批判もありますが、それでも言い換えることは必要なことです。
ただし、言い換えた言葉に再び差別感を盛り込んでしまうこともよくあるようで、そこには差別する意識が変わらないという理由があります。
また、差別語であることが明らかな言葉でも使用しなければならない場合があり、それは差別表現にはならないということになります。
例えば、江戸時代を描いた書籍の広告で「穢多頭浅草弾左衛門と、非人頭車善七との争いを描いた物語」というコピーを有力新聞社が掲載拒否したということがありました。
確かに、穢多や非人は差別語ですが、これを書かなければこの広告は成り立ちません。
被差別民を扱った物語の存在も許さないというのは、差別を無くすことにはつながらず、あまりにも形式的に過ぎることでした。
本書実践編には、差別の種類として、障害者、病気、女性、ゲイ・レスビアン等、被差別部落、職業等に分け実例とともに記されています。
また、具体的な対応策というものも示されており、特に企業の総務部といった対外折衝部門では必要な知識かもしれません。
なお、差別される側にも別の差別意識が抜きがたいという、興味深い実例もありました。
50年以上前のテレビ番組で、部落、職業差別を表した表現をしたとして部落解放同盟が非難声明を出したのですが、その中で「このような差別劇を多数の国民の前にさらしたという、恐るべき白痴的状況を我々は糾弾せずにおられない」と書かれており、差別に一番敏感であるはずの部落解放同盟でも「白痴」という差別語と無縁ではないということでした。
細かく本書を見ていくと、私自身も決して差別と無縁ではなく、使ってしまいそうな言葉がいくつもありました。
気をつけなければいけないことなのでしょう。