読んでいる内に怒りが湧き出してくる本は何度か読んでいますが、(「日米地位協定入門」)この本も同様です。
もちろん、本に対して腹が立つ訳ではなく、その描いている事象や社会に対して怒るわけですが。
怒りの対象は当然、政府が主ですがこの本の場合は経済界、そして無関心な我ら自身も含みます。
著者の湯浅さんは、NPO法人「もやい」の事務局長として長らく貧困者の救援に携わって来られた方です。
生活困窮者の生活保護申請にも1000人以上に同行し、できるだけその申請を妨げようとする役人と渡り合ってきたという経験もお持ちです。
「貧困」とは「低収入」と同じではないそうです。
もちろん、全ての貧困者は低収入ですが、低収入であっても条件が良ければ何とか貧困にならずに済む人もいます。
しかし、その条件、それを著者は「溜め」と呼んでいますが、それがなくなってしまえばあっという間に貧困に転落します。
かつての日本社会では、低収入であっても様々な溜めがあり何とかやっていけました。
しかし、形を変えた給与とも言うべき企業福祉がどんどんと廃止され、これまでは肩を寄せ合って暮らしてきた家族もそれぞれが自立できる収入を失っていくと、低収入が直接貧困につながるようになります。
ヨーロッパ先進国と比較してはるかに劣る国家による社会福祉は、企業や家族の支えがあってこその程度のものだったのですが、それが失われつつあっても政府が取り組むことはありません。
これを自覚すること無く、50代以上の人々は若者が甘えていると考える事が多いようです。しかし、実は高齢者の若い頃は企業や家族に支えられていただけのことであり、やはり昔は「甘えていた」のです。
生活保護基準というものがありますが、生活保護を受けていなくてもそれ以下の収入で生活している人もいます。生活保護基準以下の人のうち、実際に生活保護を受けている人の割合を「捕捉率」と呼びます。
イギリスの捕捉率は90%、ドイツは70%ということですが、では日本は?
なんと日本は1966年以降まったく捕捉率を調べていないそうです。
日本の行政は貧困というものを見ようとしていないということです。
格差論が盛んとなっていますが、著者は格差だけを語ろうとしても貧困とは別物であるとしています。
格差是正だけを言っていると貧困に目が向かないとうことです。
社会保障をどんどんと削る方向に政策が向いています。
社会保険方式の年金や健保になっているので、掛け金を払う側が少なくなれば給付も少なくなるのが当然としていますが、実は税金も多く投入されている制度です。
実は、その税金投入を減らしたいがための給付削減であり、税金の使い方というところから含めて考えていかなければならない問題です。
生活保護を断られたために餓死した人がでたという、事件が北九州市で起きました。
北九州でそれが起きたのは偶然ではなく、「ヤミの北九州方式」とでも言うべき生活保護政策があったそうです。
生活保護の受給者数は1995年に最少となった後、全国で増加し1.7倍に増えています。しかし、北九州市だけは減少していました。
生活保護申請者を追い返すということを目的に、「見事な」システムを作り上げていたそうです。
そして、今やこの「北九州方式」が全国に広がろうとしています。
貧困者を食い物にする「貧困ビジネス」の横行も蔓延しています。
人材派遣会社もその筆頭です。
さらにネットカフェのようなところも住む場所もない貧困者の寝泊まりするところとしての性格が強くなっています。
他にも敷金礼金不要と称するアパート(実は借家人保護の法律逃れのもの)、保証人ビジネスなど、困った人々を食い物にする商売が多くなっています。
巻末に著者は「私たちにできる10のこと」を挙げていますが、そのうちのひとつだけを紹介しておきます。
それは「自己責任論」とはオサラバすること。
野宿をする人や、ネットカフェで寝泊まりする人を見ると、誰もが少しは「ああなる前に何かやりようがあったのじゃないか」と考えがちです。
「貧困」は本人の努力が足りなかった、実力が無かった、運が悪かったという問題ではなく、社会の側の問題であるということをはっきりと意識する必要があります。
貧困者がどの程度いるのかすら、日本政府は把握しようともしないということには呆れ、怒ります。
これに取り組まずにミサイルやレーダーに数千億を平気でつぎ込むことなどやっているといつかは日本国内に火種を育てることになるでしょう。