爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「抗生物質と人間 マイクロバイオームの危機」山本太郎著

抗生物質という薬の登場で、多くの感染症が治るようになりました。

しかし、その一方で抗生物質の使いすぎで薬剤耐性菌というものが増加し、それに感染して亡くなるという人も増えています。

巻頭には、この抗生物質により生命を左右された例として、著者の祖父母の死が説明されています。

父方の祖父母は第2次大戦の頃に相次いで結核感染で亡くなります。

あと数年経てばストレプトマイシンの製造が間に合って亡くならずに済んだことでしょう。

そして、母方の祖母は1980年に盲腸手術からの薬剤耐性菌感染で亡くなります。

これも抗生物質の影の働きのためと言えるでしょう。

 

このように、抗生物質感染症を劇的に治療することができる一方、耐性菌を生み出して難治療感染症を作り出してしまったという面も持っています。

 

しかし、この本で著者が述べているのは、抗生物質はそれらよりはるかに広い範囲に影響を及ぼしているということです。

特に経口で使われる抗生物質の作用のために、腸内細菌がバランスを崩されて大腸炎が引き起こされるということは知っていましたが、それ以上の大きな影響を与えているのではないか、その提起は非常に興味深いものでした。

 

現代社会において、急速に患者数を増やしている病気というものがいくつかあります。

肥満、喘息、食物アレルギー、花粉症、アトピー性皮膚炎、糖尿病といったものです。

これらの病気の原因はあれこれ挙げられていますが、実はその根底には「マイクロバイオーム」つまり人体の中の微生物叢、特に腸内細菌叢が抗生物質によって崩されているためではないかというのが著者の仮説です。

 

もちろん、肥満や糖尿病は栄養の取り過ぎと運動不足、アレルギーは免疫異常といった原因はあるのですが、その奥底にあるものは、人体と微生物が守ってきたバランスを失ったことにあるのかもしれないということです。

 

これまで人類史上でそういったヒトマイクロバイオームの変化が大きく起こったのは、10万年以上前に食物の調理を火を使って行なうようになった時、そして1万年ほど前に農耕が開始されそれまでの動物性蛋白質中心の食から穀物中心に移行した時であると考えられます。

そして、今回の抗生物質による微生物叢の変化というものは、それらの変化以上の影響を人体に与えているようです。

 

体内の免疫機構は、「他者を攻撃する」はずですが、それならなぜ腸内細菌などを攻撃しないのか。

よく考えてみれば不思議な話です。

これは、人間が中心であるという考え方をしていると見逃すことであり、実は人体と微生物叢というものが一体となって形作られているヒトマイクロバイオームとして見なければならないのではないか。

その考え方が必要なのかもしれません。

 

本書の中ではいろいろなエピソードを紹介してありますが、その中で非常に興味深いものがいくつかあります。

 

家畜に抗生物質を投与すると、体重の増加が促進されるということで、動物用の抗生物質が多く出回り、それによって耐性菌も増えるという問題点が指摘されてきました。

これがなぜ起きるのか、その機構は明確に解明されているとは言えないのですが、実はこれは「人間」にも起きているのではないか。

つまり、乳児のごく早い時期から抗生物質投与をすると、その後肥満になりやすいと言えるのではないか。

現在では出生後ごく早い時期から感染症にかかると抗生物質投与というのが普通なので、これを確かめるための「対照区」が得にくいのですが、どうやらその傾向があるようです。

 

出産時に多くの事故が発生し、母親と出生児の双方が生命の危険にさらされるということが多かったのですが、それに対し「帝王切開」での出産という方法が編み出されました。

これで失われかねなかった生命が多く救われるようになったのですが、最近では「痛みが少ない」とか「妊娠前の体型に戻りやすい」といった理由で行われることが増えており、特にブラジルや中国などでは半数近くの出産が帝王切開で行われています。

実は、通常の出産に際しては、子宮や膣内で母親の体内の羊水などを飲み込みながら生まれてくるために、母親の細菌叢が子供に受け継がれるという作用があるそうです。

これが帝王切開では無くなります。

その影響もあり得るのではということでした。

 

顕微鏡というものを作り出し、はじめて微生物を観察したと言われる、オランダのレーウェンフックという人が居ますが、彼は1632年10月にオランダ南西部のデルフトという街で生まれました。

そして、同じデルフトで1週間後に生まれたのが、かの画家フェルメールであったそうです。

二人の間に交友関係があったのは間違いなく、フェルメールの遺産管財人を務めたのはレーウェンフックであったという公式記録が残っています。

それ以上は想像ですが、もしかしたらレーウェンフックが観察しスケッチを残した微生物の絵にはフェルメールの助力もあったかもしれないということです。

 

非常に面白い観点から抗生物質と人体の関係を見たものでした。

著者ももちろん抗生物質の有用性を認めてはいます。

しかし、「乱用」は慎むべきということです。

アフリカやアジアでは、医者にかかる金もない人たちが病気になると、市場で抗生物質を買ってきて素人診断で飲むそうです。

それがどのようなことにつながるのか。

証明するのは難しい領域の話でしょうが、きちんと考えるべきことでしょう。

 

 

危ないところ、熱中症の症状か、手足の指が痙攣

今日は久しぶりに晴天、これまで気にはしていたもののできなかった庭木の剪定をしました。

朝の9時過ぎから始めたのですが、その頃は少し肌寒い気温で薄いジャンパーを羽織っての作業でした。

 

昼前に休憩した頃にはかなり汗をかき、暑いという体感でした。

 

昼食休憩のあと、また始めたのですが、それから約2時間経つと手足の指が連続して痙攣、急激に体調が悪化しました。

 

どうやらこれは熱中症の症状のようです。

急に暑くなったとは言え、まだ気温も30℃までは上がらない程度で、それほどとは思わなかったのですが、逆にそれが熱中症になるという条件を満たしていたようです。

 

幸いに早く気がついたのですぐに涼しい室内で休憩し復活しました。

まだ真夏のような暑さまでは至っていませんが、かえって身体が暑さに慣れていないため危険性が高いようです。

気をつけなければ。

「日本の死活問題 国際法・国連・軍隊の真実」色摩力夫著

著者の色摩さんは外務省に入省し外交官も務め、1970年代に赤十字国際委員会で戦時法規の改定作業というものをやった時には日本政府代表として参加したそうです。

(といってもその時にその分野の専門家であったというわけではなく、他の部署からの参加者がまったく出なかったために仕方なく行ったとか)

 

そんなわけで、国際法や国連の実情、そして軍隊というものについても非常に詳しい(一面では)ということのようです。

その目から見ると、現在の日本の世論というものは、そういった面の知識が欠如したままに作られているために、世界の実情からはかけ離れたものとなっており、危ういものと言うことです。

 

まあ、あまりにも専門家であったために目に入らないこともあるかもしれませんが、基礎知識としてこういった人の意見を見ておくのも参考にはなるかもしれません。

 

先の大戦第2次大戦)の終わり方という点では、日本とドイツとは大差があったようです。

日本は終戦時にはまだ一応政府というものが存在しており、国家として降伏手続きができました。

しかし、ドイツでは政府が壊滅しており、連合国が占領したまま新たな政府を作らせるということになりました。

 

日本の終戦はどうであったか、これはまずポツダム宣言受諾ということで降伏しました。

これは軍隊レベルの手続きです。

あらゆる戦闘行為がここで終了します。

そこから、国家レベルの終戦手続きに入ります。

交戦した国家の間で平和条約(講和条約)を作って調印し、双方の国家がそれを批准することで戦争が「法的に」終了することになります。

これが近代国家間の戦争終結の慣習となっていました。

 

しかし、第二次世界大戦の終了後には、「国連」というものを作ったために、これが歪められました。

 

国連(国際連合)はUnited Nations の訳語として作られた日本語です。

しかし、United Nations とは、実は大戦時の「連合国」の意味でもありました。

同じ英語を使っていながら、戦争時は「連合国」、終戦後は「国際連合」と訳し分けたのは日本人が国連というものの性格をわざと隠そうとしたためだとか。

 

国連には今でも「旧敵国条項」というものが残っています。

旧敵国といっても、ほとんどの国は終戦以前に連合国側に寝返っていますので、それに当たるのは日本とドイツだけです。

国連が平和主義とは言えないというのは、このような国連発祥時の性格がそのまま残っているからです。

このような国連の安全保障委員会常任理事国に、日本がなろうというのはまったくありえない話だということです。

 

自衛隊を軍隊として認めようという風潮ですが、現在の日本の自衛隊は軍隊としては武力は一人前以上の実力ですが、統治方法としては警察に毛の生えた程度のものでしかなく、それをしっかりと決めなければ軍隊とはならないそうです。

 軍隊というものは、どこの国でも行政組織ではなく、行政立法司法の三権と並立して存立する第4の権力というところに位置づけられます。

しかし、日本の自衛隊は行政機関そのものになっています。

そのため、軍隊としての本来の機能を発揮できません。

しかし、武力だけは備えているために他国から見れば軍隊そのものです。

その格差が激しいために、もしもアメリカが防衛から手を引き日本が独自の防衛をするようになったら何もできないだろうということです。

 

まあ、おそらくそうなんだろうなと半信半疑のような読後感の本です。

これを判定するには、さらに多くの勉強が必要なようです。

 

日本の死活問題 国際法・国連・軍隊の真実

日本の死活問題 国際法・国連・軍隊の真実

 

 

日本学術会議が、津波に対する東電の姿勢を批判。「研究段階の危険性にも真摯に対応するべきだった」

日本学術会議が、東日本大震災福島原発事故についての検証で、次のような報告書を出すということがNHKニュースで報じられました。

www3.nhk.or.jp

これもどうせすぐにネットから消えますから多めに引用しておきます。

「まだ研究段階の学術的な成果であっても、原発に深刻な影響を与える可能性があるものについては真摯(しんし)に受け止め、対策の厚みを増しておくことが重要だとしています。」

 

地震津波に関する研究の進展により、原発のある地域での最大津波高さがこれまでよりはるかに高くなる危険性があるということが、研究者により発表されましたが、東電はその学説がまだ学会内で反論があるということを口実に、様子見と称して何もしようとはせず、それがあの原発事故につながりました。

 

また、「当時の規制機関、原子力安全・保安院について、採用すべき新たな知見をみずから見いだす努力をしていなかったと指摘し、規制機関は、知見の発掘と評価を継続して行い、事業者を指導・監督することが重要だとしています。」

として、東電のみならず規制機関の姿勢も批判しています。

 

津波の大きさの見直しについては、新たな学説として非常に高いという予測を発表しても、一部の学者が見直しに反論し、政府や東電はそれにより、その説がまだ不確定ということにして対策を怠りました。

それら反対した学者たちがどのような立場かとまでははっきりしませんが、推測はできます

その姿勢の結果がこのような事態を招きました。

 

これは、電力会社、原発規制機関、津波学者だけの話ではありません。

どのような業種、研究分野であっても同じ問題が起こり得るでしょう。

誰もが自らを省みて考える必要のあることです。

 

「マグマの地球科学 火山の下で何が起きているか」鎌田浩毅著

火山学者として有名な鎌田さんの本はこれまでにも読んでいますが、「マグマ」そのものについて詳しく説明されている本書は、非常に興味深い内容です。

 

別の本で、「マグマはプレート運動で海水がマントルと触れ合ってできる」ということを知り驚きました。

しかし、この本で「マグマのでき方にはいくつもの過程があり、水と触れるというのもそのうちの一つである」ということを知りました。

これも驚きです。

 

マグマができ、それが地上に噴出するということも、プレートテクトニクスによるものです。

それは、大陸が移動するという学説から発展してきました。

ドイツの科学者ウェゲナーが1912年に大陸移動説を発表したときにはほとんど受け入れられませんでした。

それが他の現象からの証拠も集めて実証されてきたのはようやく20世紀も後半になってからのことでした。

 

火山活動はプレートの動きから起きているのですが、その場所によりその性格も異なります。

地下から続々とマグマが上がってくる中央海嶺(拡大軸とも)では常時大量のマグマが湧き出してきます。

そのプレートの一番先端、他のプレートと衝突して沈み込む部分では、海水がプレートに巻き込まれて沈んでいき、それが地下のマントルと混じり合ってマントルを溶かし、マグマとなって岩の隙間を伝って地上に吹き出します。

これが日本などの島弧での火山爆発です。

それ以外にもホットスポットという地域もあります。

ハワイがそれに当たるのですが、大洋の真ん中に熱が特異的に上昇してくる場所があります。

デカン高原洪水玄武岩と呼ばれる大量のマグマ流出の名残もその1種だったと考えられています。

イエローストーンの巨大カルデラ噴火もこれだったということです。

 

マグマがどうやってできるかを調べるには、地球内部の構造の研究が進むことが必要でした。

様々な方法によって捉えられたその構造は、中心に固体状の金属の内核、そして液状の金属の外核があり、その外側に固体の岩石のマントルがあります。

マントルの外側に薄い岩石の地殻があります。

マントルは非常に高温なのですが、圧力が高いために固体となっています。

マントルの上部、地下100から250km程度のところでは、岩石の主成分珪酸塩が溶解する温度である1000度以上の温度ですが、圧力が高いために固体となっています。

そこに何らかの刺激が加わり液状になってマグマとなるわけです。

固体状のマントルですが、それでも徐々に対流で移動します。

それが地表に近づいた場合、圧力が減少するためにそのまま融解してマグマとなることがあります。

また、何らかの揮発性物質、水や二酸化炭素、フッ素などが地下に入り込んでマントル接触しても液状化してマグマとなることもあります。

 

このようなマグマのでき方により、マグマの成分も違ってきます。

そのため、地域によって、また火山一つ一つによってマグマの成分が異なるということになり、著者にとっては「非常に面白い」ということになります。

 

マグマに代表される地中の熱源というものをエネルギー源として利用しようとする、地中エネルギー開発はエネルギー供給不安がある中で進められています。

マグマに直接触れて熱源としようとする研究は、アメリカなどのマグマが流動している火山などで実施されていますが、成功例はないようです。

また、マグマに触れた地下水の熱を利用するということが広く研究されていますが、なかなか難しい問題が多いようです。

 

火山の爆発などでよく聞く「マグマ」ですが、いろいろな面があり興味は尽きないようです。

 

マグマの地球科学―火山の下で何が起きているか (中公新書)

マグマの地球科学―火山の下で何が起きているか (中公新書)

 

 

丸山穂高議員を別に擁護するわけじゃないけれど、ちょっと違和感

世論などが一色に染まるとちょっと違和感を感じて別の見方をしなくなる、天の邪鬼な私です。

 

北方領土と戦争」の発言をしたということで、議員辞職も求められている丸山穂高議員ですが、以下の解説記事にあるように、その発言の仕方は非常に巧妙で言い逃れのしやすいやり方をしているということです。

blogos.com

つまり、「自分は質問をしただけ」「単純な二択を示しただけ」であるから問題無しとする、卑怯な態度だということです。

 

しかし、卑怯は卑怯ですが、実際にそのような発言の仕方をしているのですから、一般に捉えられているように「北方領土を取り戻すために戦争をしましょう」などとは言っていないのは確かです。

 

それがどうやら世間一般ではすでにそういった発言であったかのようなイメージで捉えられているようです。

みんなが一緒の方向を向いているときは、ちょっと疑ってみることが必要かもしれません。

「内田樹の研究室」より、「論理は跳躍する」

内田樹の研究室」を見ていたら、学習指導要領が改定され「論理国語」という科目が登場するということを解説されていました。

blog.tatsuru.comちょっと油断していると、こういうおかしな変化にも気づかないままということがあるようです。

高等学校の選択科目で、「論理国語」と「文学国語」を分離するということです。

edutmrrw.jp

まあ、ちょっと見ただけでも「文学」には「論理」がないと言わんばかりの浅はかな思考だという感触です。

 

これについて、内田さんは「すばる」という本のインタビューを受けて語ったので、その内容を紹介されています。

 

内田さんは、兵庫県の国語の先生たちに講演するための打ち合わせで担当の先生たちと話をしたそうですが、いずれも「論理国語」の出現にとまどっていたとか。

そして、その試験の例というものを見せてもらったそうです。

そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。
 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

どうやら、「ある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的」ということのようです。

 

 ここで、「文学的な日本語を味わうのも大切」と行くのが普通でしょうが、内田さんのユニークなところは次の部分に現れています。

 

それは「論理は飛躍するから面白い」ということです。

 

どうやら、「論理国語」に出てくる「論理」とは、あーすればこーなるからあーだこーだ。といった、極めて初歩的な、(つまらない)論理だけのようです。

ところが、マルクスフロイトといった知性の巨人たちは、そのようなつまらない一歩一歩の論理などではなく、「飛躍する論理」を操って高度な思考を成し遂げたと言っています。

 

そのような、「論理の飛躍」をするためには、知的な「勇気」が必要です。

文科省でくだらない「論理」を操っているつもりの役人たちに、一番無縁であり彼らも避けているのが「勇気」です。

彼らは「上の顔色をうかがい」「怯え」「恐怖心を持つこと」で階段を上がってきただけであり、そおには「勇気を持つ」ということは含まれていません。

 

内田さんの最後に強調している言葉が「論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。」ということです。

ほんとに、良いこと言いますね。