爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「中国義士伝」冨谷至著

義士とは何か。

節義と言うものを貫き通し、過酷な運命によって非業の死を遂げてもそれを貫き通す人です。

中国の漢、唐、南宋の時代に節義を貫いた3人の義士の伝記が書かれています。

 

漢の蘇武、唐の顔真卿南宋文天祥は極めて困難な状況にも関わらず、自己の信じる価値観に最後まで殉じました。

その生き様はその後も長く人々の尊敬を集めています。

 

蘇武は漢の武帝の時代に、勅命で匈奴に使者として赴きましたが、捕らえられ幽閉されます。

こういった境遇の人々の多くは匈奴に寝返り仕えたのですが、蘇武は決してその誘いに乗らず20年の間耐え続けました。

同時期に蘇武と旧知の李陵も捕らえられ、初めは李陵も寝返りを拒んだのですが、漢の側に虚偽の情報が伝えられ、李陵が寝返ったという話を信じた武帝は李陵の一族を処刑してしまい、それが伝えられると李陵も漢を見限り匈奴に仕えます。

しかし蘇武は最後まで貫き通し、武帝崩御したために匈奴との和議が成立したことで帰還することになります。

その際、すでに匈奴に仕えてしまった李陵は帰ることはできず、その別れは数多くの文学作品などに描かれることとなりました。

 

唐の顔真卿は、玄宗の時代に地方の太守であったのですが、安禄山の叛乱に対して挙兵し戦います。

玄宗はその治世の始めは名君であったものの、その後は政治に飽き楊貴妃に溺れて堕落したと言われていますが、実際には初めから奢侈の傾向が強い凡君であったようです。

しかし、治世の初期には周囲に優れた宰相などに恵まれてぼろを出さずに済んだのですが、李林逋という無学で権謀術数だけが取り柄のような男を取り立てたあたりから治世は崩れていきます。

さらに楊貴妃に溺れ、安禄山を取り立てるという愚行が続き、周囲からも賢臣、忠臣は離れていきました。

李林逋が病死すると安禄山の邪魔者は無くなり、反乱の兵を挙げますが、ほとんど対抗する軍も無かった中で、平原の太守顔真卿が従兄弟の常山太守の顔杲卿とともに義兵をあげたのでした。

杲卿は討ち死にしたものの、顔真卿は他の軍勢も集まり何とか安禄山を打ち破り反乱を平定します。

しかし、その後も大悪、小悪が次々と現れ、それに対して直言をしていった顔真卿は疎まれ反乱軍への使者として遣わされて捕らえられ殺されることになります。

 

顔真卿は祖先の北斉時代の顔子推以来、学問で知られた知識人の一族として有名で、その自負も強く持っていました。

ただし、中国での知識人というものは日本とは異なり本を読むだけの存在ではありません。

学問を修め得た知識を世の中のために使うということがその勤めであり、それを貫き形としたということで名が残ることになりました。

 

南宋文天祥は、「状元宰相」として知られます。

状元とは科挙の試験で最終の殿試で首位の成績を取った者に与えられた称号です。

宝祐四年(1256年)に行われた殿試で第一甲状元となったのが、その時21歳の文天祥でした。

しかしその直後に父親が亡くなったため、すぐに喪に服しました。

三年の服喪を終えて出仕しようとした文天祥ですが、その時にはすでにモンゴル軍が臨安に向けて進軍していたのでした。

南宋軍は各地に落ち延び、そこで元に対する抵抗を続けます。

文天祥は元との交渉に臨むこととなり、その時に宰相に任じられます。

実質的には既に政権の形は無く宰相といっても交渉の箔づけに過ぎなかったのですが、文天祥にとってはそれが大きな意味を持ったのでしょう。

しかし、交渉とは名ばかりで捕らえられ連行されます。

元に投降し仕えることを求められますが、文天祥は自らを「状元宰相」と名乗り、それを決して認めませんでした。

 

これらの義士たちは、与えられた使命と任ぜられた役割に忠実すぎるほどの行動をとりますが、そこには学問に裏付けられた信念があったのでしょう。