爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「格差の起源」オデッド・ガロ―著

19世紀以降人間の平均寿命は2倍に延び、1人当たりの所得は世界全体では14倍に急上昇しました。

このような経済成長が何故可能になったのか。

そして、それほどの経済成長により繫栄しているといってもそれが世界の中のごく一部に止まり、貧富の差が大きくなっているように見えるのはなぜか。

その問題を解明するため、人類の歴史を大きくホモサピエンスの誕生まで遡り、人類史を動かす根本要因は「統一成長理論」にあるとして解説したものです。

 

しかしどうもその主張には何か抜けているものがあると感じます。

これまでの繁栄をもたらしたものの解説の中で、地球温暖化のような人類生存の脅威となる状況も、「新しい画期的技術を開発する貴重な時間が得られ」解決可能だという、「技術開発信仰」とでも言えるような思考がその基本にあるようなのです。

そこまでたどり着いたところで、何だこの本はと思ったのですが、それでも我慢して読み進みました。

それにしても、この著者も経済学者(歴史にも詳しい)ですが、そういった人々に抜きがたく存在する「技術信仰」はなぜ強いのでしょうね。

 

何か変なんですね。

人類が6万年ほど前にアフリカを出発したごく一部の集団からアフリカ以外の人類は増え続けたため、遺伝的には多様性が少ないのですが、経済的繁栄を成し遂げたヨーロッパは多様性が豊富だとしている。

わざわざ遺伝的同質性を持ち出しながら、文化は多様だと言われても。

そして中国やイスラムは中世には文化的に繫栄したものの、その後停滞したのは多様性が少なく同質だからというのですが、中国も中東も非常に多様な人々が集中していることは無視でしょうか。

男女の役割が分れる文化は、動物に犂を引かせて農耕をした所に発展し、その名残がまだ残っていて男女差別につながるとか。

牛などに引かせる犂は非常に重く男性しか扱えなかった上に、牛や馬も大型の獣で男性の得意分野であったため、女性は家に残り家事だけに従事する伝統ができた。

そしてそれがいまだに尾を引いているというのです。

しかし、日本では牛馬による耕耘はごく近世に徐々に広まった程度で、まったくその伝統があるとは言えないのですが、それでも男女差別の伝統は色濃いのはどこから来ているのでしょう。

 

まあ、ケチをつけるのもこの辺にしておいて、参考になることも少しはありました。

 

中国やオスマン帝国のような中央集権型の文明では政府はエリート層といえど統制下におけたのですが、ヨーロッパでは発明家や起業家はそのような支配者の国があれば隣の国に移るという手を使えました。

コロンブスが新大陸への航海の資金を得ようとしたのはまずポルトガル、そしてジェノヴァヴェネチアだったのですが、皆断られました。

しかしスペイン(カスティーリャアラゴン)の王からようやく資金を得て航海をすることができました。

それと同じ時期に中国の明はコロンブスなどはるかに上回る大船団をアフリカにまで送りましたが、朝廷の政争で止めると決められればそれに従わざるを得ませんでした。

帝国全体の統治という意味では中国の方が効率的でしたが、一見バラバラのヨーロッパでは発展の道ができあがってきました。

 

その他、なんとなくそれらしいことが書かれてはいます。