爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ひどい民話を語る会」京極夏彦、多田克己、村上健司、黒史郎著

民話と一口で言っても、その中には伝説、昔話、世間話といったものがあるようです。

昔話は「むかしむかしあるところに」で、時代も場所も登場人物もはっきりとは定めません。

しかし伝説はそれらが(本当かどうかはともかく)一応確定させてあります。

その性質も話される状況によってかなり変わってきます。

 

その中で、子ども相手に語られる民話(昔話)というものは、相手に合わせてしまい子どもに受けるようにどんどんと形を変えてしまうということがありました。

しかも、子どもたちに受けるにはシモネタをかなり入れ込む必要がある場合も多かったようです。

しかし軍国主義で桃太郎が聖人君子の英雄化されたように、その他の昔話からもそのようなシモネタは追放されてしましました。

戦後になってもその元の形を取り戻せないままになっています。

 

これではいかないとばかりに、昔話コレクターの京極さんたち4人が集い、そのような失われた民話を語る会というものを実施したということです。

ただし、シモネタといっても一応エロス系のものは止めておいて、数も多いスカトロ系(屁だの便だのといったもの)に絞ったそうです。

またグロの方も少しは取り上げていますが、多くはスカトロとなってしまいました。

 

子どもに語って一番受けるのはやはり「屁」だったようです。

「へっぴり嫁」とか「屁ひり比べ」といった内容の民話が各地に残っていますが、これも同じような形のものが多く、他地域からの流入や模倣といったことが考えられるそうです。

 

暴力や殺人などといった要素を含む話も多いのですが、細かい描写をするわけでもなくさらっと流すことが多いようです。

 

民話というものは昔話と伝説の間のようなもやもやしたところに存在するとも言えますが、これは語り部が子どもなどに話すということがあるため、どんどんと付け加えられ話が盛られていくという経過が取られることが多かったようです。

そのため、語り部の性質により何かの傾向が強い人はそれをさらに盛っていくということがあったのでしょう。

子どもも同じ話では何度も喜ばないということもあり、さらに過激になるということも。

そういった民話をいつの時期か民俗学者が蒐集していくという調査が行われました。

これもその語り部に誰を選んだかによって大きく傾向が変わったこともあったのかもしれません。

まあ、このような学術的考察はごくわずかで、本書の内容のほとんどはその「ひどい民話」の実例をどんどんと紹介するというものでした。