中国はその長い歴史の中、延々と同じような文化が続いたという世界でも稀に見るようなものです。
その人々もその長い伝統の中で培われた性質があり、日本人から見れば驚くようなこともあるようです。
この本では、その特色を「悲惨」と「悦楽」という面から描写していきます。
「悲惨」の方では古代はいざ知らず、中世と言われる時代以降は常に厳しい官僚制によって支配され続けたことが骨の髄までしみ込んでその性格を形作っていることが影響しています。
世界の多くの地域では貴族という層が力を持ち封建制といった時代も長かったのですが、中国では官僚というものが圧倒的な力を発揮する絶対君主制が長く続きました。
そしてその官吏たちの主な仕事は「徴税と裁判」であり、その両方で庶民を苦しめ続けました。
官吏の給与というものはごくわずかなものであり、徴税は私的なものも含めることが公認されていたも同然であり、強制的に取り立てた税で自分の財産を形作るということがずっと行われ続けていました。
それは今も続いているのかもしれません。
そして、もう一つの「裁判」も当事者からの賄賂取り立てが常態化しており、多く賄賂を出した方を勝訴させるといったことも普通の事でした。
そのような官吏に支配される庶民もそれに合わせていかざるを得ず、それが中国人の性格形成につながっているのでしょう。
そのような官吏となるには科挙を受けて高成績で合格することが必要でした。
これは一応は誰にでも受験の機会が与えられていたのですが、四書五経を中心とした儒学の知識を卓越した作文技術で飾ることだけが求められるという、いびつなものであったため、幼児の頃からそれにふさわしい教育をせざるを得ず、かなりの財力がある家でなければ息子の科挙合格というものは不可能でした。
それだけに一生を使い結局は合格はかなわないという人々がほとんどでした。
しかし一族の中から一人でも合格し、高級官僚となれば一族全体に利益となるということでその望みを男子に掛けるということが行われていました。
そのような人々の悲惨な状況がある一方、楽しみを求めることも極端なほどでした。
そのような楽しみの中から、漢詩、玩物(コレクション)、美食追求、美人、庭園といったものについて解説されています。
どれも財力があるといっても、政治力を伸ばすことができなかった中国人にとって、その財力を傾ける価値のあるような悦楽というものを求めるという、いささか偏執狂的なほどになる例を示しています。
庭園も有名なものがあちこちにありますが、これらはすべてプライベートなものであり、公開などはされていませんでした。
せいぜい客として迎える知人たちだけに見せるものとして作られたのですが、それに費やした費用は相当なものであり、その時だけの楽しみとするにはもったいないものですが、他に使いようも無かったとも言えます。
中国という国、中国人は世界の中でも大きな力を持ってきましたので、否応なしに付き合って行かなければならないのですが、こういった性質を持っている人々というのはやはり付き合いにくいものなのでしょう。