音楽批評という分野の文章を書く人々がいて、音楽雑誌などに発表しそれをファンたちが読むという文化があります。
江戸時代に小唄や浪曲などの「音楽批評」があったとは言えないようで、あくまでもこれは明治時代に欧米から洋楽を輸入し始めた後に始まったことのようです。
そういった音楽批評について、150年の歴史の中から100冊の本を選び色々語ろうというもので、音楽だけでなく様々な評論活動をしている栗原さんと、音楽演奏も音楽批評もやっている大谷さんが二人で紹介していきます。
150年を約30年ごとに区切り章を分けています。
最初の章は1876年から1905年、欧米の音楽を必死に取り入れようとしたのが分かります。
その第1に紹介されているのが岩田通徳という人物が1878年に著した「音律入門」というもの。
岩田は旧幕臣で大目付まで務めたのですが、明治になると新政府に出仕、雅楽歌というところに勤務し、洋楽の紹介を担当したそうです。
日本の雅楽も西洋の音楽も12音の音律によっており同様だというトンデモ?理論だそうです。
明治初年に政府が洋楽を必死で取り入れようとしていたのは、江戸時代の長唄、小唄、都都逸などの「三味線音楽」は江戸文化の華とも言えるものですが、所詮「遊郭」と「芝居小屋」の二大歓楽街でのものであり、悪い文化であるという新政府の観念があったようです。
そこから距離を置くために唱歌と言うものを作り出し無理やり学校で教えることとなりました。
しかしよく言われていたように「唱歌は校門を出でず」つまり学校では教えられていてもそれは街中には出ていかないということでした。
最初の頃は洋楽を輸入するといっても実際にそれを聞いたことのある人もほとんど無く、わずかに留学などで洋行した人が聞いた経験があり、他の人は楽譜を見るだけでした。
しかしその次の時代、明治後期から大正になるとようやくレコードというものが輸入されそれで実際に音を聞くことができるようになります。
当時の報知新聞の記者であった野村長一(胡堂・のちに銭形平次を執筆)はクラシック音楽ファンでもあり、またレコードコレクターでもありました。
彼は音楽批評も多く書いており、そのペンネームは「あらえびす」というものでした。
1924年には「日本で聴かれるベートーヴェンの9つの交響曲」という文章を書いているのですが、その時点ではまだ第九のレコードは日本で発売されておらず、それは聞かないまま文章を書くという、いい度胸してるというものだったようです。
その後ようやく日本製の音楽のレコード化もなされるようになります。
そういった歌謡曲の本格的な批評書も出版されるようになります。
それを書いたのはなんと歌謡曲を検閲し不具合のあるものを摘発する役職であった、内務省レコード検閲室主任の小川近五郎だったそうです。
彼は昭和16年にそれまでの6年間に毎月1000枚以上のレコードをチェックしてきた知見をまとめ「流行歌と世相」という本を出版したそうです。
音楽批評というものは長くクラシックばかりを相手としていましたが、戦後になりジャズの批評も書かれるようになりました。
しかしジャズ以外のポピュラー音楽はほとんど相手にすることもない状態が続いていました。
1966年にビートルズが来日するのですが、その時点でもまだその音楽を批評する場というものがなかったそうです。
マスコミの狂騒はあったのですが、結局はインタビューが2本掲載されただけでした。
一つは学校を出たばかりの星加ルミ子、そして音楽評論をやっていた湯川れい子はどういう手を使ったかもぐりこんでの取材でした。
ビートルズに限らずロックなどの音楽を扱う音楽評論が出てくるのはその後、ビートルズの曲をクラシックやジャズの音楽家がカバーするようになって、ようやくその曲の良さが理解できるようになってからのことだったそうです。
最近の音楽界では販売形式がダウンロード中心と大きく変わってしまい、音楽評論というものも変質し無くなりかけているようです。
あの、音楽雑誌にちょっと気取ったような文章で書かれていたものはもう流行らないのでしょうか。