民主主義は多数の決定に従うということばかりが優先され、共同体の意思がそれだけで決められるかのような風潮が強まっているという危惧を持つ人が居ます。
民主制度はその構成員の中で議論を尽くし、最後の決定を多数決で行なうというのが基本のはずですが、日本の政治を始めとして多くの共同体で決定機関の過半数を占めたグループが問答無用でその意志をすべてに押し付けるということが見られます。
それに対し、民主制度での決定は決定以前の議論で妥協点を探り最後の最後に多数決で決定するのが基本であると言われています。
それが正論であろうとは思いますが、ただしそれが成り立たない場合があるのではないかと思い当たりました。
ここで言う民主制度による共同体とは、国や地方自治体、地域の自治会、学校の生徒会など何でもいいのですが、それは何より「構成員の性質にさほど差が無いこと」というのが条件でしょう。
その差が大きすぎるのに民主制だから論議を尽くしましょうと言っても難しいことが多いようです。
日本という国は日本人という構成員で出来上がっているということが、かなり共通した性質であるとは思いますが、(外国出身者、在留外国人、等々の方々もかなりの比率で住んでいるのは承知していますが、一応それは保留しておきます)それでも視点を変えればその中にはかなりの差があると言えるかもしれません。
いくら日本人であっても経済的に余裕のある人々と食や住すら確保が難しい人々とは大差があります。
その間で民主制度の手続きが守られるのか。
それでもかけ離れた主張をする人々の間にも、最低限の一致点があるということに気づきます。
それが「エネルギー依存現代文明に対する支持」です。
例えば資本主義と共産主義であっても、この点では同一です。
その手段は違っても結局は「工場生産」を選ぶのに変わりはなく、その効率の優劣で資本主義が勝利しました。
つまりここでも「民主制の原則」は守られる可能性があるということです。
世界のあちこちに広がる、「対立する状況」を見てもその双方は似たり寄ったりという状態が見られます。
日本の政治状況では自公政権と野党などはほとんど同じようなものに見えます。
せいぜい「ちょっと清潔」とか「ちょっと民衆寄りのポーズ」といった程度の違いにしか見えません。
アメリカでは「分断が進む」などと言っていますが、これも「大国の原理」を守り、「エネルギー依存文明にどっぷりと浸かる」ということではどちらも同様であり、その土俵の上で多少の違いを言い募っているようにも見えます。
このような「どっちもどっち」の状態で「多数決の横暴」を押し通すのは民主制というものを破壊する行為であり許されないものなのでしょう。
実は、このようなことを考えるに至ったのは、私が前から考えている「脱エネルギー社会構築」ということが本当に進められるのかということを想像していたからです。
私の考える究極の脱エネルギー社会どころか、そこに至る「エネルギー半減社会」そして「エネルギー10分の1社会」であっても、それを実現するためには現在の多くの職業を廃止し、それに就業している人々を転職させなければなりません。
そんなことは、民主的な手続きではほぼ不可能でしょう。
いくら「エネルギー依存文明」の危うさを説いても多くの人がそれに納得し自発的に職業を変え生活を変えようとするまでにはどれほどの時間がかかるでしょうか。
おそらく、エネルギーの供給が先細りとなりあちこちでそれによる危険状態が見られるようになって、ようやく多くの人にそれが実感されるようになるまでは誰も納得はできないでしょう。
まあ、この話は置いておいて、「民主制の原理」はせいぜい「どっちもどっち」の中ではきちんと厳守していただきたいものです。