爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」日高義樹著

広島の原爆死没者慰霊碑の碑文に「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」と書かれているのに違和感を持った人は多いと思います。

原爆の投下とその被害に対して、誰の「過ち」なのか。

 

原爆を市民が暮らす都市に投下するということはどういう意味があったのか。

その点について、NHKに入局後ながくアメリカ勤務をし、戦争に関しての取材も多く実行してきた著者が当事者へのインタビューも数多くこなし、知り得た内容をまとめました。

アメリカ政府や、その後の日本の指導者が双方の国民に信じ込ませたものとはまったく違う印象の真実がありました。

 

日本軍が真珠湾攻撃を宣戦布告以前に行ない、それがアメリカ国民の復讐心を呼び起こし、原爆投下にもつながったというのが、日米国民の認識となっているようですが、実は原爆開発をスタートさせたのは真珠湾攻撃より前です。

ドイツがすでに原爆開発を始めているという情報に対抗上始めたものでした。

しかし、当時のアメリカ人の多くはドイツ系の人々が多く、ドイツに原爆投下などということはできない状況でした。

しかもドイツは原爆完成以前に崩壊し終戦したために使うとすれば日本相手しかありえなくなりました。

しかし、日本も1945年に入る頃にはもはや一部の軍部指導者以外は戦争遂行が不可能であることを認識し、様々な方法で和平の道を探るようになります。

ここで降伏を許せば原爆を使うことができないと考え、ギリギリまで引き伸ばしたうえで完成した3発の原爆を、1発は国内で実験。残りの2発はどうしても実験しなければならなかったのです。

 

アメリカ政府の記録は一定の年月が経った後には公開されることが定められていますが、原爆の開発と製造についてはいまだに秘密にされている部分が多く、著者の調査も困難であったそうです。

それで分かってきたのは、原爆に関しては政府や軍部の大部分が知らないまま、フランクリン・ルーズベルト大統領とその周辺の人間だけで決めれれ遂行されたということです。

原爆開発の予算が議会で通過したのは真珠湾攻撃の前日、1941年12月6日、つまりその準備は真珠湾奇襲攻撃があろうがなかろうが、すでにそのかなり前から進められていたということです。

もちろん、その後の巨額の予算出費は真珠湾攻撃というものをチャンスとして活かして議会を納得させました。

結局、原爆の開発製造には20億ドルの巨額の費用がかけられました。

そのような原爆を、実際に使わないまま日本の降伏を許して終戦させたのではアメリカ国内を納得させられないというのが、ルーズベルト急死のあとをついだトルーマン大統領の判断でした。

 

さらに、原爆投下のもう一つの重要な要素、B29爆撃機もその開発は1930年代から始められています。

これは、原爆だけに使われたのではありませんが、それまでの中型爆撃機では搭載も不可能だったので、B29無くしては原爆投下もありえませんでした。

このB29開発にも30億ドルの国費が使われました。

これも有効利用しなければ国内の納得は得られませんでした。

 

ルーズベルトは1932年に大統領に当選しています。

その後、憲法の規定にも反して4選を果たしていますが、彼はその任期の早い時期から日本との戦争を考え、その戦略としてB29長距離爆撃機と原爆というものを計画していたという記録があるようです。

さらに、ドイツやイタリアの移民とはまったく異なり、日系人の強制収容というものを実施したのもルーズベルトの考えでした。

そこには、間違いなく日本人に対する人種差別的発想があったものと考えられます。

さらにそれは、市街地や市民を標的とした戦争末期の日本各都市に対する大規模空爆にも現れています。

ドイツに対してはあくまでも工場や軍事基地に対する爆撃が多かったのですが、そこにも日本人は別と考える思想があったようです。

 

原爆開発には多くの科学者たちも関わってきました。

ようやくその開発も形になり、兵器として使われることになりそうな情勢となると、多くの科学者はその使用に反対するようになります。

開発を指導した一人のエドワード・テラー博士も敵地への原爆投下には反対したそうです。

その圧倒的な爆発力は非常に多くの市民の犠牲を予測できるからでした。

 

また、軍部のほとんども原爆の使用には反対だったようです。

ただし、その理由は科学者たちとは異なり、まだ実戦使用経験のない兵器をすぐに使うということに対する不安感からでした。

そのため、通常兵器による日本の都市爆撃には反対もせず、原爆を上回る被害者を出す攻撃を実施しました。

 

広島と長崎を原爆投下の目標とするのにも、軍事的な効果を考えたわけではありませんでした。

最初の候補地選びでは、皇居や京都なども挙げられたそうです。

しかし、すでに天皇を日本占領の道具として使おうとしていたために皇居は外されました。

それ以前の都市爆撃で多くの日本の都市は壊滅しかけており、それでは原爆の効果がわかりにくいからとして、なるべく無傷の都市を選んだだけでした。

ここでも、「原爆の実験」をしたいがための投下であったということが分かります。

そのため、当時まだ爆撃による被害が少なかった、広島、長崎、新潟、小倉が候補となったそうです。

結果として、広島にウラン235を使い砲撃方式で爆発される「リトルボーイ」、長崎にプルトニウムを使った爆発型の「ファットマン」を投下しました。

 

当時の日本はすでにほとんど抗戦能力を失い、一部の軍部指導者以外は戦闘意欲も失っていました。

都市爆撃はほとんどの大都市に対して行なわれ、中小都市にまで及んでいました。

さらに、様々な種類の機雷を沿岸に投下し船舶の航行を不可能とさせていました。

当時は多くの物資輸送を船舶で実施していましたので、国内の輸送すら困難としていました。

このような状況で、もはや原爆投下があろうとなかろうと戦争継続は困難であり、原爆投下が必要とは言えない状況であることは、アメリカ国内でも多くの人々が理解していました。

しかし、ルーズベルトの急死後に大統領に就任したトルーマンは、その立場のあまりにも弱いために、かえって原爆投下ということをしなければ国内をまとめることすらできなかったというのが、理由だったようです。

 

都市爆撃について、知らなかった情報がありました。

B29は高高度からの爆撃が可能ということで、高度1万mから爆弾を投下するというイメージが強かったのですが、3月10日の東京大空襲のように、ジェル状の火炎弾とガソリンを投下し、市街地を焼き払うという空襲を行った際には、高度700mから1700m程度の低空飛行で精度良く投下したそうです。

当然ながら、この高度では通常の対空砲も効果を発揮し、爆撃機撃墜も可能なのですがすでに日本の対空兵器は壊滅しているという見込みのもとに実施されたのでした。

 

また、原爆投下のための要員は非常に優秀なメンバーを揃えたため、エノラ・ゲイが広島に向かった時には、何らかのトラブルで要員が空中脱出をした場合に無事収容できるように数百mおきに潜水艦を待機させたそうです。

 

現代の状況の記述では、2012年の本のため北朝鮮弾道ミサイルについては触れていませんが、すでに巡航ミサイルは数百発が日本に向けられており、核爆弾は無くとも放射性物質を積み、沖縄と横須賀の米軍基地は常に焦点を合わされているとされています。

このようなミサイルは安いものでは数百万円から購入できるとか。

こういった攻撃を断念させるためには、日本側も抑止力を持つ必要があるとしています。

 

原爆の2発の投下というのは、その後の世界の情勢を変えてしまいましたが、もう一つの作用としては日本人の自立の意志を徹底的に奪ってしまったという効果もあったようです。

日本にとってはその方が大きな影響だったようです。

 

なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか

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