爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「沖縄と核」松岡哲平著

2017年にNHKの番組「NHKスペシャル 沖縄と核」が放送されました。

本書はその番組のディレクターの松岡氏が、放送では使われなかった部分も含めて本としてまとめたものです。

 

沖縄には現在は無いと言えるのでしょうが、日本返還前には確実に核兵器が存在しました。

東西冷戦の時代にその最前線の基地として、多くの核兵器が中国やソ連を狙って配置されていました。

それらの情報はすでに公開されているものもあり、また実際にそれに携わった兵士たちも存命の人が多く居ます。

これまでは、現在の沖縄米軍基地の問題点のあまりの大きさに、かつての基地問題までは取り上げる余地もないほどだったのでしょうか。

しかし、沖縄の核兵器というものを見ていくと、通常兵器とは異なる大きな意味に慄然とする思いです。

 

戦後すぐには、現在の状況とはかなり異なり、日本全国にアメリカ軍の基地があり特に沖縄だけに集中しているということはありませんでした。

海兵隊も全国各地に分散していたのですが、ちょうどその頃に海兵隊核武装を進めるということになります。

核兵器の元の形は、長崎広島に投下された原子爆弾でした。

これらは米空軍が大型爆撃機に搭載して目的地に向かい投下して攻撃する形でした。

しかし、それだけでは敵国の対抗処置が取りやすいということで、海兵隊核武装をしていくという方向になります。

オネストジョンという名の、地対地兵器のロケット砲で、射程が24kmほど、発射台は大型トラックに載せて移動可能というもので、この砲弾に核弾頭を搭載可能にしたものでした。

これを当時の日本全国に駐留していた米海兵隊に配備しようとしたのですが、日本本土では強力な反核意識があり、反対運動が強くなります。

そのままでは反米意識の盛り上がりにもつながるとして、米軍は海兵隊の駐留自体を当時は自らの施政権下にあった沖縄に集約するということで対応します。

1950年代前半には朝鮮戦争対応のために沖縄の基地強化が行われますが、朝鮮戦争終結後の1950年代後半にはさらに沖縄の基地拡大が行われました。

その理由が日本本土から沖縄への移転であったのです。

 

沖縄にやってきた海兵隊は、すぐにオネストジョンを使った核攻撃演習を行います。

しかし、実際は沖縄は土地が狭いためにこのような演習には不向きでした。

そのために、沖縄ではもう一つの海兵隊演習「立体輸送」に重点が置かれます。

第二次大戦当時は、海兵隊の主戦法は上陸用舟艇で敵前上陸をして攻撃するというものでした。

しかし、地対地兵器の充実でそのような戦法を取るとあっという間に舟艇が撃沈され全滅ということになりました。

そこで、その当時から運用が活発になったヘリコプターを使った移動作戦が使われるようになります。

これは現在でも同様であり、ヘリコプターからオスプレイに代わってもこれが主戦法となります。

そして、その移動部隊が持っていたのが8インチ榴弾砲であり、それで小型核弾頭を発射するのが当時の海兵隊の役割となりました。

 

空軍の核攻撃戦略も変化していきます。

大型爆撃機からの原爆投下という方法は、すでにレーダーと迎撃ミサイルにより困難になっていきました。

そこで、F-84やF-100といった小型の戦闘爆撃機を超低空(150m)で侵入させ、ターゲットの直前で機体を急上昇させると同時に核爆弾をリリースし、それが爆発する頃には機体は高高度まで上昇するという攻撃方法を取ることとしました。

これをLABS(Low Altitude Bombing System)と呼びます。

その攻撃法はパイロットにとって非常に難しいものであり、その訓練用に新たに伊江島の演習場を拡大しました。

 

1950年代末には、中距離ミサイルであるナイキハーキュリーズが沖縄に配備されました。

これは、ソ連からの弾道ミサイルの防御用であると称されましたが、実際は核弾頭を装備しソ連や中国を狙えるものでした。

そして、度々発射試験も行われましたが、1959年には核弾頭を装備したミサイルの誤射事故も起きました。

幸いにも爆発はしませんでしたが、危機的な状況でした。

 

1961年にはさらに大型の核ミサイル「メースB」が沖縄に配備されます。

これは、射程2400kmとロシア東海岸から東南アジアまでを射程内に収めるものでした。

ナイキハーキュリーズは一応「防御型」といえるものでしたが、メースBは完全に攻撃型ミサイルでした。

取材班はこのメースBの部隊に配属された元兵士のインタビューも実施しています。

これらの攻撃型核ミサイルの部隊には、本来はベテランの兵士が配属されることになっていたのですが、当時は払底していたためか司令官以外は多くは10代から20代の若く経験も少ない兵士たちでした。

彼らが1962年に起きたキューバ危機の際の東西緊張の場面でミサイルを預かっていました。

非常に危険な事態だったということでしょう。

 

その後、沖縄の日本への返還ということになります。

「核抜き本土並み」といった言葉は、私も見た記憶があります。

そして、「核抜き」は一応達成されたものの、何が「本土並み」か、こちらは全く未達成ということも覚えがあります。

その「核抜き」の方も微妙な話であったようです。

ただし、アメリカの思惑では「核は置かない」代わりに「基地はもっと使う」ということで収めたということなのでしょう。

 

もしも、朝鮮戦争キューバ危機などでもミサイルが飛び交う状況になっていたとしたら、一番最初に核爆弾で破壊されたのは沖縄だったということでしょう。

NHKの取材とは思えないほど内容のあるものでした。

 

沖縄と核

沖縄と核