「同時性」という言葉はいろいろな場合に使われており、アインシュタインも使っていますが、ここでは「同時に同じ所にいるということ」を問題として、経済現象を取り扱うという意味で使われています。
アマゾンなどのネット販売品の配達が急激に増加し、ヤマト運輸などの宅配便が能力の限界に達して様々な破綻現象を見せたとして、大問題になりました。
ヤマトが取扱を減らしたり、配達時間帯を変えたりといろいろな対応が為されていますが、根本的な解決には遥かに遠いということは誰が見ても分かります。
しかし、ヤマト運輸が一から開発し育て上げた「宅配」というものが、すでに根本から破綻しかけているということを本書では論じます。
スマホというものが急速に発達したために、様々なサービスを細切れの時間の中で使えるようになりました。
商品販売を含めたサービスというものは、かつては販売店を訪れて店員と対面し交渉し購入するという、「同時性」が必要なものでしたが、スマホの利用により通勤通学途中の電車の中や、ちょっとした待ち時間などに数分を使ってやればできてしまう状況になりました。
このような、「同時性の解消」ということが、社会のあらゆるところで起きています。
しかし、「商品の受け取り」という最後のところで「同時性解消」に失敗しており、それがヤマト運輸などの宅配業者の混迷につながっています。
40年前にヤマト運輸の小倉昌男氏が官僚や他の運輸業と壮絶な闘いをして作り上げていった宅配業ですが、その当時はまだ女性の社会進出も進まず、老親の同居も多く、つまり「家に誰か居た」
そのために、宅配のドライバーが荷物を届けても受け取り可能であったわけです。
しかし、その後一人や二人の家庭が大幅に増え、さらに女性の有職率も上昇した。
つまり、ほとんど家庭には人が居ない状態になってしまいました。
そのため、「再配達」が非常に増えてしまいました。
この動きはもはや止めることはできず、ドライバーが荷物を届けた時に家に誰かいることが原則の荷物受け取りは成り立たたくなってきています。
宅配ボックスの設置や、コンビニなどへの荷物の留置といった対策も模索されていますが、これも本質的な解決には程遠いようです。
人と人とが顔を合わせることで成立する「同時性」
これに左右されるサービスは根本から考え直す必要がありそうです。
「宅配が無くなる日」というのは近い将来にやってきそうです。
それではどうするか、例えば荷物の配達は通常は現在のスーパーなどの店までとして、そこに客は荷物を取りに行くというのが基本サービスということにするしかないのかもしれません。
これは、かつてのスーパーマーケットの業態と近いものかもしれません。
以前のスーパーでは、その店が発注して荷物が入荷し、それを客が選んで購入した。
しかし、今後は客がそれぞれ発注した荷物をスーパーが受け入れ、客が受け取りに来るという業態であり、それほど違うわけではないようです。
これは、これまで経済の勝ち組だった「宅配」と「コンビニ」が新たな業態に挑戦を受けているということなのかもしれません。
このような社会となってしまうと、人間はほとんど動かずに生活できてしまうことになるかもしれません。
しかし、そのような社会であっても動き回る個人が発展する可能性があるようです。
無駄かもしれないけれど動き回って他者とのふれあいの機会をもち、そこから新たな可能性を発展させる人が成功するとか。
やれやれ、恐ろしい時代にすでに入ってしまったようです。
スマホすら持たない老人には入る隙間もないのかもしれません。