爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「外邦図 帝国日本のアジア地図」小林茂著

外邦図」とは、明治の初期から太平洋戦争期にかけて日本がアジア・太平洋地域について作製した地図を指します。

それは植民地支配や戦争遂行のために必要なものでした。

 

こういった地図は他のヨーロッパ諸国にとっても最重要のものであり、偵察使命をおびてアジアを訪れた軍艦などは必ず沿岸の測量をしていったものでした。

それを、今度は日本もやり出したというものです。

そのようにして作られた外邦図は、高度な軍事機密といえるものであり、第二次大戦敗戦時には他の機密書類と同様に焼却処分される運命にありました。

しかし、その一部が焼却を免れて各地に残っています。

著者を始め多くの地理学者が国内のみならず海外にも残っている外邦図を調査し研究を進めていますが、その劣化も進んでいるようです。

なお、この焼却処分という行為は日本ばかりでなくドイツでも同様に実施されるはずでしたが、ドイツの敗戦は予想以上に急激に進行したために処分実施の余裕もなく、連合国側に接収された資料が日本の場合よりはるかに多く、残存数も桁違いに多いようです。

 

地図の整備というものは、政治的・軍事的価値の強いものであるためにかなり早い時期から国家が直接関わって実施するということが行われていました。

イギリスの場合はウィリアム・ロイという軍人が1763年に立案するもののその時はスタートせず、ようやく1791年になって軍隊を中心として始められたといことです。

フランスでは17世紀から徐々に進められたもののその後二転三転し、1821年にようやく国家機関として地図作成が始められました。

日本の場合は、伊能忠敬の作成が有名ですが、幕府からの援助もあったとは言え少額で、臨時実施の性格が強いものでした。

また、その測量技術もコンパスによる方位測定、縄や歩数による距離測定という原始的な方法であり、言われるほど精度が高いものではありませんでした。

 

三角測量という精度を上げられる方法が取られるようになったのは、明治維新後にヨーロッパからの技術導入をした後の話でした。

 

明治になるとすぐに朝鮮半島や中国への進出を目指した日本は、それらの地域の地図というものを得ることが必須となります。

欧米人が作った地図を入手したということもあったようですが、せいぜい沿岸部のみのものが多く、精度も低いものであり自分たちでの作成を目指すことになります。

 

1875年の江華島事件のあと、日朝修好条規という条約を結び公式に日本人が朝鮮に入ることができるようになりますが、まだおおっぴらに地図作成のための測量をするわけにいかず、陸軍の測量担当者が変装をして入り込み簡易器具を使って測量するという手段で地図を作っていきます。

住人によって発見されて騒ぎになることもあり、また襲われて死亡することもあったようです。

 

日清戦争が起きると測量部隊も戦闘部隊と同行し堂々と測量できるようになります。

戦争後はロシアも同様の測量部隊を送り込み、測量合戦のような状況になります。

こうやって作られたロシア側の地図はその後日露戦争の際に日本側に押収されたものも出てきます。

地図の争奪戦というものも実際に起きたようです。

 

第一次大戦以降は、飛行機を使った空中撮影による地図作成というものが増え、一気に広範囲の作図をするということが可能になりました。

とはいえ、基準となる三角点の位置が分からなければせっかくの空中写真も使いようがないのですが、その位置さえ決めればかなり精度の高いものを作れたようです。

 

こういった空中写真の原版というものも、終戦時にほとんどが焼却されてしまいました。残っていれば学術的価値は多かったのかもしれません。

 

戦争と植民地支配というものの道具となった地図ですが、やはりそこに何が書かれていたかということには興味が尽きないところです。

 

外邦図――帝国日本のアジア地図 (中公新書)

外邦図――帝国日本のアジア地図 (中公新書)