正高信男さんはサルの行動学研究が専門で執筆当時は京都大学霊長類研究所の教授だった方ですが、そこから現代の日本人の行動についても類推し、2003年には「ケータイを持ったサル」という本を出版しかなりの話題となりました。
本書はその直後、2005年に出版されたもので、前著を補完すると言えば聞こえは良いが、悪く言えば柳の下の二匹目のドジョウかもしれません。
「ケータイを持ったサル」は出版当時に読んだことがありますが、本書はそれよりはさすがにインパクトが弱いように思います。
2005年当時の状況ですから、現在はよりIT依存は悪化しているのでしょうが、その頃でもかなり問題な点はあったのでしょう。
そのようなIT依存というものが人間の行動にどういった影響を与えるかという点についての記述となっています。
まず最初は、「引きこもり」ならぬ「出あるき」と言うべき行動が増えているという紹介から始まります。
引きこもりは家族との接触すら避け自室に籠りきりになることですが、「出あるき」はしょっちゅう家出同然に出あるき回るのですが、外で多くの人と触れ合うということではない。
友人の家を泊まり歩いたり終夜営業の喫茶店のような場所で過ごしたりして、そのうちに家に戻ってくるというものです。
ひところ話題になった「プチ家出」と似たようなものですが、本質的には異質であるということです。
プチ家出では「家」というものを良かれ悪しかれ正面からとらえる、すなわち家というものがある程度大きな意味を持っての上のことですが、出あるきではそのような家の持つ意味はほとんど見当たりません。家、すなわち親や家族というものの存在感が薄れているということです。
これはケータイの普及と大きく関わっており、親も「ケータイを持たせているからいつでも連絡できる」と考えて家に居なくても慌てません。しかし、実際に電話をかけることもありません。
そのように実質的にただ同居しているだけという家族になってしまいました。
キレる若者というものも、きちんとした対人コミュニケーションができなくなったからというものです。
ケータイメールでは絵文字、顔文字といったものに加え、「ギャル文字」「へた文字」といったものまで出現してきました。
これはコミュニケーションの方法として極めて「私的」意味合いの強いものであり、もはや言語的コミュニケーションの域を逸脱しています。
このように感性重視のサル的コミュニケーションばかりになった若者たちは行動が衝動的になりキレるようになったというものです。
2005年当時はまだイラクとアメリカの紛争が現実的問題でした。そこでイラクとアメリカの文化というものを論じています。
アメリカの方がはるかにテクノロジーの恩恵を受けてはいますが、それでアメリカが「文化的」であるとは言えずイラクの方がはるかに「文化」として確固としているとしています。
アメリカは各自の考え方、行動がバラバラになってしまっています。これは自由である反面、文化の崩壊といえるのではということです。
人間の社会の歴史を振り返ってみると、狩猟採集を主とした社会から農耕社会へと発展してきました。
その集団の人数がどのくらいかということを調査した研究があるそうですが、狩猟採集社会では30人から50人程度であったものが、その後の社会では150人くらいに増えました。
しかし、それから後は社会が変わってきてもその集団人数はずっと150人のままで現代まで来ているそうです。
この集団を狩猟採集社会の集団=生態学的集団と区別して「認知的集団」としています。
その人数は150人程度が最良であるのではないかという説をイギリスのサル学者ダンパーが論じているそうです。
さまざまな社会で、軍隊や会社、宗教組織などの機能単位の規模を調査したところ、ほぼ150人と見なせるそうです。
これは軍隊では一個中隊になります。これが近代地上戦での活動最小単位なのですが、それも人間の行動の性質上決まっているようです。
このような認知的集団というものを革命的に破壊してしまいかねないのが「ケータイ普及」というIT化かもしれないということです。
認知的集団の中では個人も相互理解を通して集団に帰属することを確認しています。しかし、ケータイでの結びつきではそれが確認しづらく、過度に集団を意識し勝ちになるようです。
ということで、本書でも結局「サル化する日本人」という結論になりました。
サルの行動学研究が専門の著者ですから、決してサルをバカにした発言ではないでしょうが、その意味を十分に意識した文脈になっていると感じます。
考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))
- 作者: 正高信男
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/07/26
- メディア: 新書
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