人が生きるために一番大事なことは「食べる」ことですが、地球上一杯に広がってしまった人類はその地域に合わせた食をするようになり、それぞれ特有の「生業(なりわい)」を繰り広げるようになりました。
人類の歴史から語り始め、特徴的な3地域についてそれぞれ詳細に説明しています。
それは、「アジア夏穀類ゾーン」「麦農耕ゾーン」そしてそれとは対抗してきた「遊牧文化」です。
アフリカで生まれた新人類ホモサピエンスは、その後アフリカを出るのですがそれ以来地球上のすべての地域に広がっていきます。
それは他の動物には見られない特徴なのですが、ある時期からあまり移動しなくなります。
移動すること自体、狩猟採集で食物を集めていると周辺の動植物を取り尽くしてしまい、次の場所を求めてのことだったのでしょうが、それを続けながら移動して行ってもある時点で「もうどこにも行けない」ことになったのでしょうか。
そのためか、仕方なく定住してそこで農耕を始めたかのようです。
その作物は地域によってかなり違いましたが、どうも各地で一斉にその場の植物を栽培し始めました。
イネ、コムギ、アワ、ヒエ、トウモロコシといったものが栽培されましたが、その後ほぼイネ、コムギ、トウモロコシに絞られてきます。
家畜を飼うという生業も多くの地域で始まります。
ウシ、ウマ、ヤギ、ブタ、ヒツジといったものが5大家畜と言えますが、他にも地域的なものとしてトナカイ、ラクダ、スイギュウ等があります。
それらの原種が何だったのか、どこで始まったのかもすでに明らかではありませんが、そこから人為的な選択が続けられたために、多くの家畜では遺伝的な多様性が失われ、ほぼ単一の種となってしまいました。
アジア夏穀類ゾーンとは、アジア東南部の落葉樹林帯で、ロシア沿海州南部から朝鮮半島、中国本土、日本を含み東南アジアまでつながる地域です。
針葉樹林では他の植物の生育も少なく、動物も少ないために人が生活するには不適な環境でしたが、落葉広葉樹林帯では多くの食用植物が生育し動物も多いため人も早くから住んでいました。
ここにまずアワやヒエなどの雑穀栽培と、川での淡水魚漁とを食料獲得の手段として農耕が始まっていきます。
その後、イネの栽培が伝わってきて広く作られるようになります。
このシステムがいわゆる「水田漁労」と呼ばれるもので、この地域で古くから広く行われていきます。
ユーラシアの西半分は「麦農耕ゾーン」と表現しています。
この地域では家畜の利用の重要性も高く、地域によってヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマ、ラクダと違いはありますが、これを生業の相当な比率としています。
ただし、一般に想像されるように、肉食を主とするというよりは、ミルクを利用する方が主だったようです。
ある程度は肉食にも回すのでしょうが、何と言っても食べてしまえば終わりですので、ミルク利用の方が重要だったのでしょう。
そこにはコムギの生産性の低さという問題もありました。
コムギには多くの品種がありますが、かつての中世ヨーロッパではその生産効率(一粒の種子が何倍になるか)が数倍にしかならなかったそうです。
日本のイネではその数字が200倍ですから、その低さは際立つものです。
そのため、当時はパンといってもしょっちゅう食べられるものではなく、その他のものが多かったため、日本人のように「主食」という観念が乏しいそうです。
ただし、ヨーロッパと言っても地域によってかなり差があり、地中海や北海沿岸ではかなり魚も食べられていますが、北ヨーロッパ内陸ではほとんど肉ばかりということになります。
牧畜文化というのはかつての遊牧文化から生まれてきたのでしょうが、その間には大きな違いがありそうです。
遊牧民は土地の価値というものをほとんど考えず、ヒツジに草を食べされて無くなれば次の場所に行くというのが当然と思っています。
それがその周辺の農耕民にとっては脅威であり、中国ではその流入を防ごうとして長城を築きました。
こういった遊牧民の感覚というものは、かつての狩猟採集時代から続いているもので、今は定住している日本人などにも色濃く残っています。
キノコや山菜を取りに行くというのは、その名残であり、それが他人の土地かどうかということもあまり気にしません。
しかし、それで各地でトラブルが起きているように、歴史的にも遊牧民族と農耕民族の間にはトラブルが絶えず、戦の記録も数多く残っています。
麦農耕文化では、ほぼ全域で麦は粉にして食べています。
イネの場合は粉にすることもありますが、だいたいは粒のまま食べているのとは対照的です。
これは、粒食の場合は「煮炊きする」ということになり、調理用の水が多量に必要なためのようです。
粉食では、捏ねる場合にも水は少量で済み、それを火で焼けばそれ以上には水は必要としないので、水資源が少なかった麦農耕地帯では有利だったためのようです。
食と言うキーワードで人類史を振り返るという、当然すぎるような手法ですが意外な点も数々出てきました。
盲点だったのかもしれません。