爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「葬式は誰がするのか 葬儀の変遷史」新谷尚紀著

最近は農村部でも葬祭業者任せというところがほとんどとなり、時代の流れを感じることも多いと思っていましたが、実際は簡単な話ではなかったようです。

 

著者は国立歴史民俗博物館で研究をしたのち、國學院大学に移ったという民俗学研究者で、各地の民俗的行事の調査研究を実地に行っているとのことで、葬儀の風習も様々な事例で検討されています。

 

葬儀の担い手というものは、A血族的 B地縁的 C無縁者 の3つがあり、現在は限りなくCだけになっていっていますが、それ以前のBというのも古代から続いていたものではなく、近世まではAの親族だけで行われていたもののようです。

 

それが江戸時代からの地域社会の発展に伴ってBの地域共同体の構成員で行われる葬儀というものに移り変わっていったのですが、それは地方によって様々な形態をとっているようです。

死亡直後からすべて隣近所が行い家族親族は口出しできない 広島県

死亡当日だけ家族親族が準備、その後はすべて隣近所    山口県

葬儀手伝いは隣近所、土葬などは親族           新潟県

食事準備から野辺送りまでほとんど家族親族、隣近所は参列のみ  岩手県

 

といったところです。

 

古代、中世までは親族による葬送というものが行われてきたのですが、近世から地縁的な組織ができ、宗教による門徒の結びつきなども強まり地方によって特色のある葬送儀礼ができてきたようです。

 

しかし、現在ではそれらがすべて壊されていってしまいます。

市町村による公営火葬場の建設というものが各地で行われ、火葬はそこで実施というのが当然になりました。それ以前には火葬も自分たちでやっていたために、労力が多数必要ということもあり隣近所の助け合いという必要もあったのですが、それが不要になりました。

さらに、近年では葬祭場が各地に設置され、葬儀すべてがそこで済まされるということになってきています。

葬儀で非常に大きい比重があった、食事の準備というものが会場で行われるようになり、人手は要らなくなりました。

この辺は会場ができたから人手は要らなくなったというよりは、人手が出せなくなったので会場が必要になったということでしょう。

 

実は私の両親の郷里(長野県南部)でも30年ほど前の祖父母の葬儀の頃までは普通に土葬が行われ、葬儀も自宅や地域の集会所で行われていました。

しかし、それ以降は火葬場が完備、葬儀も葬祭場ということになってきました。

大きな世の風習の移り変わりというものの記憶が、自らの体験と重なりあって理解できました。