爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「宗教激突」ひろさちや著

仏教学者のひろさちやさんが2001年のアメリカの同時多発テロ直後にキリスト教イスラム教の宗教対立が激化している問題について書かれたものですが、その対立はさらに激化してとどまるところを知らないようです。
しかし、キリスト教すらまともに理解できていない日本の報道が、さらにまったく理解できないイスラム教も扱おうとするのは難しいようで、いろいろおかしな議論も見られるようです。ここらできちんとした解説を読んでおくのもいいかも知れません。

「テロに屈せず戦う」というのが合言葉のようになっていますが、本書冒頭にもあるように、戦闘で民間人多数を殺傷したのはアメリカの方がはるかに早く、また大量に殺しています。またゲリラ戦というのも決してイスラム教徒の得意戦法ではなく、ヨーロッパで早くから用いられているものです。現在イスラムと結び付けられて考えがちなものはそうではないというものもあります。

イスラム教キリスト教の強い影響下に成立したものであり、イエスもイスラム教の預言者の一人として位置づけられていますが、キリスト教の言うような「神の子」としての存在ではなく不完全なものという扱いですので、そもそも共存できるものでもないのかもしれません。
キリスト教ユダヤ教から分かれてできたものであり、この3大宗教は同根のものであるのですが、近親憎悪のようなもので、相互の反発も強いもののようです。

しかし、後発の有利さからかイスラム教は成立以降非常にすばやく布教が進み、多くの信者を獲得することになりました。ただし、「ジハード」という言葉はよく言われているような「聖戦」という意味は元々は持たずに、単に「努力する」という意味であったようです。また、「コーランか剣か」といった言葉もイスラム教自身が使ったことではなく、かえってキリスト教徒が「聖書か、剣か」と言って布教し改宗を迫ったということがあるようで、それをイスラム教にかぶせただけということです。

イスラム原理主義とはよく言いますが、イスラム教国が一時の勢いがなくなりキリスト教国がルネサンス以降勢力を伸ばす中で、劣勢となったのは世俗的なイスラム教国の政府のためだと考えて、原点に戻る運動が活発化しそれが知るラム原理主義というものにつながりました。元々イスラム教自体はそれ以前のキリスト教などの世俗化に反発して生まれていますのでそのような性格を持っていたようです。

キリスト教はイエスを救い主と信じるところから始まりますが、イスラム教ムハンマドは救い主とは考えていません。あくまでも最後で最高の預言者であり、救うのは神だけであるという考え方です。しかし、アラーを信じるだけではなく、六信五行と呼ばれる信仰と義務があり、礼拝や喜捨というものもここに入ります。
またコーランは神の言葉をムハンマドが形にしたもので、その一片に至るまで神聖なものと考えられています。アラビア語であることも必須であり翻訳も本来は認められていません。

ユダヤ教も含めこの起源の同じ3宗教はずっと争ってきました。しかし、その宗教対立というものは実は宗教自体が対立し争ったものではなく、それを信奉している国・勢力が政治的に争ってその看板として宗教が使われていたために宗教対立、宗教戦争と見られるようになったにすぎず、本来は宗教同士の対立ではないようです。

イスラム教キリスト教の同じところ、違うところを説いていますが、最後は著者らしく仏教の解説で締めくくっています。仏教の教えを一言で言うと「愛してはならない、頑張ってはならない、希望を持ってはならない」だそうです。細かい解説は本書中にありますが、確かに仏教の原理を通すとそういうことになります。
イスラム教では「インシャラー」という言葉がよく使われ、いい加減な習慣とも見られていますが、それが宗教の本質かもしれないということです。これを著者は「神下駄主義」と命名しています。つまり、「神に下駄を預けて生きていく」ということです。これが仏教で言えば「仏下駄主義」となりますが、そのように宗教観を生かして生きていく方が楽なのかもしれません。